―4―
藤はひとり、薄暗い自分の間にたたずんでいた。
几帳の向こうは静かなのに、耳が痛いほど冴えている。
縁側を行き来する女房たちの足音。衣擦れ。
……そして、ひそひそ声。
「秩父さまに御香をいただいたの」
「殿方に送る文に香りをつけるといいんだって」
「え、それわたしも欲しい」
はしゃぐような会話。華やいだ空気。
それは風に流されるように遠ざかっていった。
(常陸さまがいなくなれば)
藤は膝の上で指を絡めたまま、ぼんやりと宙を眺める。
(次の局の要は、きっと秩父さま)
──どうして、敗残した家の娘がいつまでも都にいられるのかしら。
秩父の囁きが記憶の底から登ってくる。
背筋がぞくっと冷える。呼吸が苦しくなる。
──今にあの忌々しい田舎娘共々追い出してやる。
喉がきゅっと締まる。
追い出される。秩父が局の要になれば、まちがいなく。
唇の端が乾いていく。
(そうなったら……家は終わる……)
あの端がよれた文を思い出す。
敗色が濃厚になったとき、真っ先に味方を裏切り、朝廷軍に下った家。
息子たちはことごとく討ち死にしたというのに、おめおめと生き残った父。
最後の頼みの綱は、娘である自分、ただ一人。
その自分がこの家を追放されたら。
もう、冬が来る。
新しく女房としての働き口を探している暇などない。
(秩父さまが次の局の要になることだけは、絶対に止めなくては)
虚ろな目のまま、それでも藤は前を見た。
殿に口添えする権利など自分にはない。そんな勝手なことをすればただの無礼者。耳を貸してもらうどころではない。
(いっそ、殺す──)
思考がそこまで跳ねた瞬間、藤は自分にぞっとした。
短絡的で恐ろしい発想。
そして、あまりにもバカバカしすぎる。
周囲にはいつも下女がいる。見つからずに? どうやって?
(違う。そうじゃない。もっと別の……)
じっと畳を見つめながら、藤は自分の爪を噛んだ。
(失脚させて、屋敷から追放されるように仕向けるしかない)
ちょうど秩父がやったように。
でも、どうやって?
(冤罪)
聞いたことがある。
内裏門の放火事件。
帝を呪詛していた、と言われただけで流罪になった大納言。
疑われたら負け。それらしい話をでっち上げられておしまい。
正しさよりも。証拠よりも。
強いのは、"噂"。
冤罪は、作れる。作れてしまう。
(……噂)
怪力。人ならざる者。
そして前に見た、紅葉のあやしげな蝶の呪術。
(呪詛……)
ひゅっと、息が止まる。
それに手を伸ばしたら、後戻りはできない。
企みがバレたら、言い逃れは許されない。
罪を作るだけではダメだ。自分が疑われないように、綺麗に。巧妙に。
"証拠"を、他人の手に握らせなければ。
……ふと、視線が厨子棚に向いた。
紙。
文字の練習。『紅葉』。
喉が、かすかに鳴る。
(……たしか、呪詛には)
記憶を必死でたどる。
(自分と、呪う相手の名前が必要……)
それを紙に書いて、人形に貼りつける。……埋める? 燃やす?
いや、"らしく"見えるだけで十分。
(……証拠が、作れる)
真実の中に混ぜたウソは、見抜かれづらい。
(いい手があるじゃない)
無意識に、藤は笑みを浮かべていた。
殿と仲の良い紅葉。罪の証拠をなすりつければ、室候補も一緒にいなくなる。
局の要も、室も、まとめて──。
そこまで考えて、藤ははっと我に返った。
胸の奥にずきん、と痛みが刺さる。
(なにを……おぞましいことを)
体の奥底からどす黒いものが湧き上がってくる感覚に、怖気が走る。
紅葉は叱られるのを覚悟で手伝ってくれた。
自分を守りたいと言ってくれた。
うらやましいくらいにまっすぐで、まぶしくて、優しい目。
そんな子に、なにを。
(でも)
藤は、むくり、と体を起こした。
几帳の影が厨子棚に影を落としている。
(わかってる)
自分が今、なにを踏み越えようとしているのか。
(他に誰が、家を守れる……?)
藤はその影の中へ足を踏み入れるように、厨子棚に震える手を伸ばした。
(どんな手を使ってでも……生き残らなきゃ)
◇◆◇◆◇◆◇
(離れなければ、よかった)
渡殿までやってきて、呉葉は唇を噛んだ。
あのとき。
常陸に着付けを教える、と言ってもらえたとき。
胸がふわっとなるくらい、嬉しかった。雅なことに触れられる気がして、単純に喜んでしまった。
それで、藤のそばを離れてしまった。
常陸も藤も、なにも悪いことはしていない。
なのに誰もかばおうとはしない。守ろうとしない。
正しさ? きまり?
そこから外れた途端、悪いこと扱いだ。
(そんなの絶対間違ってる)
拳を握りしめる。
少なくとも、アタシは納得できない。してやらない。
「藤を……守りたい」
呉葉の口から、思わず漏れた。




