―3―
翌朝。
常陸の局に女房たちが集まっていた。
几帳の隙間から冷えた空気が流れ込み、肌の上を撫でていく。誰も口を開かず、表情だけが固い。
藤はその隅に座り、膝に手をおいたまま固まっていた。
体の中が空っぽになったような、そんな感覚。
言葉も、音も、すべてが自分を素通りしていく。
「『源家が、親王陛下のご使者をお迎えする際に失態があった』……その噂は、じきに広まるでしょう」
常陸は落ち着いた声で告げた。
「誰かが……札を入れ替えて──」
藤の喉からかすれた声が漏れる。
「証拠のない詮索はしないように」
常陸の声が鋭く飛んでくる。
藤は黙った。
「いずれにしても、殿に恥をかかせてしまったことに違いはありません」
常陸は落ち着いた様子で続けた。
「お優しいお方ですから、きっと罪を問うたりはなさらないでしょう。
……ですが、私の処罰は私が決めます」
淡々とした口調。
誰かが息をのむ音。
「家の名を傷つけた罪。殿に恥をかかせた罪。この命一つで贖いきれるものではありません」
さわっ、と空気が揺れた。じわり、と不安が広がっていく。
常陸はふと口を止める。
「──と、殿に申し上げたのですが、逆に叱られてしまいました。……軽々しく命などと口にするな、と」
ふっ、と常陸はかすかに笑う。
女房たちの張り詰めていた肩が、ほっ、と下がる。
藤はようやく伏せていた目を上げた。
「とはいえ」
常陸の声が再び硬くなる。
「私にも実家があります。実家の面目のためにも、この家からは出てしかるべき所で謹慎いたします」
一斉に静まり返る女房たち。
急に藤の視界が滲んだ。
……罰は。
わたしが──。
涙がまぶたから溢れ、頬を伝ってこぼれ落ちた。
藤は畳に額をこすりつけた。
「わたしを……罰してください」
震える声が喉から絞り出される。
「わたしが、座具の色を確かめずに、札だけを見て敷いてしまった、から……」
常陸はかすかに目を細めた。
「今回の罪はあなたごときが背負えるものではありません」
藤の肩がぴくっと震えた。
「それと──」
「なんで」
常陸がさらに言いかけたとき、紅葉が割って入った。
怒りを押し殺しているような表情。
「みんながんばってたのに、なんでこうなるんだ」
紅葉は立ち上がった。
握りしめられた拳は、かすかに震えている。
「紅葉」
常陸の声が一段と低くなった。
「お座りなさい」
有無を言わせない眼差し。
それでもなにかを言おうと紅葉は口を開きかけた。が、常陸の無言の重さに気圧されて、悔しそうに座った。
常陸の顔が、ふとやわらいだ。
そして……その視線が、集まった女房たちの上をゆっくり巡っていく。
最後は藤へ、そして紅葉へ。
その目が、優しそうにゆるむ。
「今後、どなたが局の要になるのか──いずれ、殿からお達しがあるでしょう。
あなた方はそのお方と共に、変わらずに殿をお支えしてください」
祈りみたいな言葉だ、と藤は思った。
局を出ていく女房たちの足取りは、鉛みたいに鈍かった。
誰もが暗い表情だった。
藤も局を出る。
隣を紅葉がついてくる。
言葉が出ない。気持ちの行き場も見つからない。
ただ、縁側を歩く。
ふと簾の向こうの人影に気づいた。
「常陸さまがご実家にお帰りになられたあと、このお屋敷はどうなるの?」
ひそひそと、ささやきあう声。顔は見えない。
「いずこかの貴族のお家から、新しく女房をお迎えするのでしょうか」
「いや──」
別の声。
「次の局の要のお役目は、やはり殿のお気に入りの──」
続きを聞きたくなくて、藤はその場を離れた。
どんな言葉も、今は耳に突き刺さるように痛い。
曲がり角まで来たとき、今度は笑う声がした。
絹のこすれる音に混じって、若い女房たちがはしゃいでいる。
「あら、綺麗な小袖ね」
──秩父だ。
藤の胃の奥が、ずしりと沈んだ。
華やかな色合いの衣の裾が、簾の向こうに見えた。
若い女房たちの声が、甘く媚びるように跳ねる。
「秩父さま、よろしければ重ねの色目を教えてください」
「私にも、ぜひ」
扇がぱさっ、と揺れる。
「ええ、よろしくてよ」
秩父が優しく笑うのが聞こえる。
唇を強く噛む。
藤は音をたてないように踵を返し、来た方へ引き返した。
◇◆◇◆◇◆◇
自分の間まで戻ってきて、藤はそのままへたり込んだ。
もう足を動かす気力すら残っていない。
「なにがあったんだ」
紅葉の声に、藤はわずかに頭をうごかした。
「アタシが常陸さまの衣装替えを手伝っている間、なにかあったんだろ?」
「……なんでも、ないの」
それだけ、どうにか声を振り絞る。
座具敷きに向かったとき、秩父とすれ違ったときにふと感じた沈香の香り。
──控えの間に残っていたのも、同じ甘い香り。
そして控えの間には札の結びつけられた座具箱。
不自然な結び目。
常陸が仕事を終えたあと、自分が座具敷きに向かうまで、準備の終わった控えの間には誰も入っていないはず。入る必要がない。
……あの、甘い香りの人物以外は。
ガリッ、と爪が畳をこする。
秩父を問い詰めたところで、なにを言えばいい? それでどうなる?
この程度の根拠では、逃げ切られてしまう。
うかつな聞き方では逆にこちらが悪者にされる。
(証拠が、ない)
藤は奥歯を噛みしめた。
「──あいつか」
紅葉が吐き捨てる。
「秩父だろ。あいつ、いつもなにかしてくる」
苛立たしげに、紅葉は畳に拳を打ちつけた。ドン、と振動が伝わってくる。
そして紅葉は立ち上がった。
「直接問いただして来る」
「ダメ」
とっさに紅葉の袖を掴んでいた。
紅葉はぎゅっと藤の手を取った。
「アタシは、藤も常陸も守りたい」
表情には怒りを含んだまま、紅葉は優しい声で言った。
「どんな理不尽なことを言われても、ウソやデタラメを言い広められても、アタシは、自分が正しいと思える限り、戦う」
紅葉の眉がきっ、と吊り上がる。
一瞬、その目が紅く光ったような気がした。
藤の背筋が凍る。
「やめて!」
思ったより大きな声に、紅葉の目が丸くなる。
眉間から、力が抜けていく。
「……ごめん、紅葉」
藤は力なくうつむいた。
「今は、一人にして」
紅葉は黙ったまま、その場に立ち尽くした。
少しして、小さくうなずく。
「……わかった」
出ていく紅葉の背中。
それを見ながら、藤はその場に崩れ落ちた。




