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―2―

 藤は控えの間に入った。

 肺の奥から息を吐き出す。

 ……胸の中の重たい気分が少しでも抜けていくように。


 隣の宴の間では、下女が額がつくほど身をかがめて、畳を拭いている。

 庭からは、下男たちが薪を並べる音。

 あれは、篝火の準備だ。

 ──来客が、近い。


(思ったよりも、かかってしまった)

 焦りがまた胸を締めつける。着替えの最中に、余計なことを考えたりするからだ。

 気のせい、だろうか。沈香の甘い香りが鼻の奥にまだ残っている気がする。

(気にするな。今は忘れろ)

 そう胸の内で繰り返して、藤は視線を上げた。

 ……大丈夫。間に合う。間に合わせる。

 鼓動が早くなっていく。


 座具箱の前に膝をつき、札を確かめながら箱を結ぶ紐をほどこうとして、ふと手が止まる。


(……え?)

 札がくくりつけられている紐の結び目。

 常陸はいつも左結びが癖だったはず。なのに、これは右結びになっている。

 隣の箱──は、左結び。でも、その次はまた右結びだ。

 あまりにもかすかな違和感。


(常陸さまにお尋ねする?)

(そんなことで?)

 視界が揺れる。手が迷ったまま宙を彷徨う。

 庭から、カン、という火打ち石の硬い音。

 火がつけられた。来客を迎える合図だ。

 ──迷っている時間は、ない。


 紐を解いて箱を開ける。古い木と真綿の匂い。

 中からしとねを取り出す。


 藤は下女を呼びつけた。

「札のとおりに茵を運んで。決して間違えないように」

 下女たちが茵を抱え、運んでいく。


 外で篝火がぼっ、と燃え上がった。ぱちぱち、と薪が爆ぜる。

 背中を汗が伝う。


 文様の向き。縫い目は後ろ。

(大丈夫。全部合ってる)


 藤は手早く散らかった紐と札を座具箱にしまった。

 運び終えた下女たちを控えの間に呼び戻し、片付けるように指示する。


 ちらっと、宴の間を見る。

 来客の姿はまだ見えない。

(間に合った)

 藤は、詰めていた息をようやくほどいた。


 緊張で膝が笑っている。

 情けない。この体たらくでは、家を守るどころではない。

(……それなのに、誰が室になるかを気にするなんて)

 自嘲が喉を掠める。

 今は、目の前の仕事だけだ。

 余計なことを、考えてる場合じゃない。

 ──自分にできることは、それしかないのだから。


 藤は控えの間から渡殿へと下がった。



◇◆◇◆◇◆◇



 少しして。

「お客様がご到着なされました」

 御簾の向こうから声がする。下女たちが縁側を走っていく。

 藤は渡殿で、呆然としたままそれを聞いていた。


「終わりましたか」

 藤は弾かれたように視線を上げた。

 ちょうど常陸が渡殿を通ってやってくるところだった。紅葉もその後ろに続いて歩いてくる。

 藤はさっと姿勢を正した。

「はい。座具敷きはすませました」

「よろしい」

 常陸は短くそう言った。そして控えの間へ。藤もそれに続く。


 来客はまだ宴の間には入ってきていないようだ。

 常陸は宴の間を覗き込んだ。


「これは……どういうことですか」


 常陸の声が、かすかに揺らいだ。

 血の気が引く感覚。藤の足が止まる。

「なぜ、お使者様の座具に浅葱の茵が」

「えっ……?」

 頭の中が真っ白になる。息も、鼓動も、どこかへ消える。

「御使者さま用にはもっとも高級な紫縁を。大掾さまには青縁、少掾さまは浅葱。……そう手配したはずです」

 常陸の声が今度ははっきりと震えている。

 体が痛いほどに固くなる。指先一つ動かせない。


 藤は、はっと顔を上げた。

 ──札。

 結び目の違う、二つ。


(誰かが……入れ替えた)

 その瞬間、胃がひっくり返るような吐き気を覚えた。

 喉の奥がえづくように動く。耳の奥がズキズキと痛む。


 ふと、沈香が香る。


 常陸の視線が横を向いた。藤はそれを追うように目を動かした。屏風の裏。ほんのすこし、華やかな色の衣の端がはみ出ている。

 あれは──たしか……。


「そういう、ことですか」

 短いため息。常陸の声が低く落ちてくる。


「申し訳……ございません……」

 藤は吐き気を必死にこらえながら、こわばる体を床になすりつけるように伏せた。

 ごん、と音がするほど畳に頭を打ちつける。

 ……こんな謝罪になんの意味もない。

 それは自分が一番わかっている。


「卑しい、ことを」

 常陸が静かに言った。

 悔やむような響き。


 ──誰に向けての、言葉だっただろうか。

 藤は、きっと自分に向けられたものだ、と思った。

 喉がぐっと詰まり、手で必死に口を抑える。溢れ出てくる涙を拭うことすらできない。



「間違っているなら今すぐ直そう」

 紅葉の声に、とん、と畳を叩く音が重なる。

「殿には待ってもらって、その間に──」

「そのような非礼、当家の恥を重ねるようなもの」

 即座に、常陸の声。


 一瞬の静寂。

 それから、常陸がふっ、と息を抜く音。

 続けて衣擦れの音。

「あなたたちは渡殿へお下がりなさい」

 それから、常陸の気配が宴の間へと消えていった。

 女房たちがそろそろと渡殿へ移動していく。



 控えの間。

 藤は身動き一つできずにいた。


「大変申し訳ございません」

 宴の間から常陸の声。

 丁重すぎるほど低い。しかしはっきりとした声。

「こちらの落ち度で、座具を取り違えてしまいました」

 空気だけがひたすらに重たい。


「常陸にしては珍しい失態だな」

 経基の声。口調は優しいが、どことなく硬い。

 ざわめき。戸惑うささやき。とりなすような声が混じる。

 すぐ隣の間からだというのに、遥か遠くに感じる。


 そのざわめきの中の、かすかな一言だけが、藤の耳に届いた。

「親王殿下の使者をお迎えするというのに……」


 その瞬間、藤の胃がぐるんとひっくり返った。




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