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―1―

 あの夜から、数日。

 屋敷は相変わらず、朝が来れば朝の忙しさに飲み込まれ、夕になれば夕の段取りに追い立てられる。

 藤は当番を淡々とこなし、紅葉もまた、叱られたり褒められたりしながら、作法と仕事を少しずつ身につけていった。


 なにごとも起きなければ起きないほど、胸の中で小さな火がくすぶり続ける。

 じりっと焦げた匂いがする気さえして、息の通り道まで渋くなる。

 決して表情には出さないように。気取られないように。

 そう繰り返すほど、心は硬く、ほどけない結び目のようにこわばっていった。


 今朝の屋敷は、薄い膜を張ったように張りつめていた。

 縁を走る下女の足音がいつもより軽く、早い。几帳を外す衣擦れ、畳を掃く箒の音があちこちで重なり、厨からは早い時間から煮炊きの匂いが漂ってくる。

 ――今日の来客は、格が違う。


 薫物たきものの箱が開いたのだろう、御香の香りが渡殿の板間にまでふわっと届いた。

 寝殿の大広間では、常陸の声が凛と響いている。早起きした女房たちが駆り出され、宴の支度と段取りの確認に、目まぐるしく行き交っていた。


 藤は、几帳をくぐるのが少し怖くて、呼吸をひとつ整えてから足を進めた。


「この度は常陸国司のご使者さまと、常陸大掾ひたちのだいじょう常陸少掾ひたちのしょうじょうのご一行がいらっしゃいます。くれぐれも失礼のないように」

 常陸の声は、いつもより低く、硬い。

 藤は喉の奥で息をつかんだ。


 常陸の実家は、従五位じゅごい常陸介。

 その上司である常陸国司は、親王が務めることになっている。その使者ともなれば、粗相は"恥"では済まされない。このお屋敷どころか、常陸の実家の面目にも関わる。

 それを思うだけで、腹の底がずしんと引っ張られるように重たくなる。


 指先の冷えを押し込めて、藤は器の確認を始めた。

 欠け、ひび、色合い。指をすべらせ、目を凝らし、見落としがないように確かめる。

 終われば食材の手配。普段よりも神経を尖らせる。背中の皮が薄くなるような感覚が、ずっとつきまとう。


 秩父を含めた他の女房たちも、飾りつけや香の準備に追われていた。

 この忙しさでは、秩父もなにかしてくる心配はない、と藤は思った。

 そう思ったというより、そうであってほしかった。

 藤にも余裕がない。だから念のため、紅葉には「今日は絶対に離れないで」と言ってある。


 紅葉は藤の隣にくっついて、器の種類や名前、これから出てくる料理のことを一生懸命聞いていた。

「これ、間違えたら絶対ダメなやつだよな」

 紅葉が不安そうにこぼす。目つきは真剣そのものだ。

「……言われたとおりにやれば、大丈夫」

 藤は紅葉へというより、自分へ言い聞かせるように答える。

 紅葉がはっきり肯いたのを見て、胸の重りがほんの少しだけ軽くなった。



 畳が重ねられ、宴の席が形になっていく。

 上座、下座。菊灯台の位置。屏風の角度、御簾の高さ、几帳の色。

 常陸はひとつずつ下女に指示を飛ばし、慎重に整える。


 続いて控えの間へ、座具箱が運び込まれた。

 来客の身分で、座具の高さも縁の色も、細工の格も違う。

 常陸は札に敷く場所を記し、紐で箱にくくりつけていく。宴の間は直前まで掃除が続く。人の出入りでわずかに埃が舞うから、座具を敷くのは来客の直前――そう決まっている。


 すべて確かめ終えると、常陸は扇をぱたっと閉じた。


「藤」

 常陸に呼ばれ、藤の肩がびくっと跳ねた。

 急いで常陸の下へ行き、さっと一礼する。

「座具敷きの手順はわかりますね」

「はい」

「では先に着替えを済ませてきなさい。くれぐれも座具の取り違えのないよう。札をよく見るように」

「承りました」

 頭を下げながら、藤はちらっと札に目を走らせた。

(大丈夫。座具敷きはやったことがある)

 札を読むだけ。敷き方、向き。ちゃんと頭に入っている。

(……大丈夫)

 藤は胸のざわつきを押さえつける。


「紅葉」

 続いて常陸は紅葉に声をかけた。紅葉も同じように、隣に来て頭を下げる。

「……着付けの手伝いをなさい。方法は教えます」

 その瞬間、紅葉の顔がぱっと明るくなった。

「すごく、雅っぽい」

 嬉しそうな声。

 はしゃぐ紅葉を見て、常陸がほんの一瞬だけ、目元をゆるめた。

 ──あの常陸さまが。めずらしい。

 藤は自分の口元も少しゆるんだことに気づいた。

「良く、学びなさい」

「はい!」

 まぶしいほどに、元気な返事。

 まぶしいほどの返事に、張りつめていた空気が、一瞬だけ薄まった気がした。



◇◆◇◆◇◆◇



 来客の刻限まで、あと少し。


 藤は自分の間へと戻ってきた。用意した装束を手に取る。

 普段着ている袿よりも、少しだけ高価な色のもの。もったいなくて、こういうときくらいしか着られない。

 衣装に袖を通そうとしたとき。ふと、前回の宴の光景が脳裏をよぎった。

 心臓が一拍、遅れてから強く打った。


 殿が紅葉に笑いかけたときの表情。あんな顔を、ほかの女房に見せたことがあっただろうか。

(殿は、やはり紅葉を──)


 耳の奥がきん、と鳴る。

(ダメ。気にしちゃダメ)

 小さく唇を噛み、手を動かす。袖を通し、衿を整える。

 その視界の隅に、厨子棚の上に置かれた文が目に入った。

 ……実家からの文。

 紙の端がよれているのは、何度も読んだからだ。


 今の自分には、どうすることもできない。

 ……なにも、できない。

 無力感が肩から落ちていき、胸の内にぽっかり暗い穴が開くような気がした。


 同じ間の隅に、紅葉の葛籠が置かれている。

 無意識に視線が吸い寄せられる。


 沈香。

 紅葉が秩父から受け取った匂い袋。

 あの中に、一番奥に、しまってある。

 あれ一つで冬を越せるほどの値がつく。それほど高価なもの。

(……売ったら、この冬くらいなら……)


 はっとして、藤は目をぎゅっと閉じた。

(こんな卑しいことを考えるなんて──)


 喉が詰まる。

 そもそも、あれは紅葉がもらったもの。もし売ったり失くしたりすれば、紅葉の立場が悪くなる。

 頭を軽く振って、藤は手早く着替えを終わらせた。



 控えの間の前まで戻る途中、向こうから秩父がやってくるのに気づいた。

 目があった瞬間、秩父はわずかに身をこわばらせる。しかしすぐに扇で顔を隠し、すましか足取りで近づいてくる。

 かすかに甘い沈香の香り。

 それに気づいた藤は、まるでさっきの自分の卑しい発想が見透かされているような気がして、胃のあたりがひやりとした。


 藤は必死に表情を隠しながら、秩父に一礼した。

 秩父は扇の上から忌々しそうな目つきを藤に向けた。

 すれ違いざま、かすかに扇を傾ける。

「どうして敗残した家の娘がいつまでも都にいられるのかしら」

 悪意に満ちた言葉。ささやきは薄いのに、刃みたいに刺さる。

 藤の胸が、ぎゅっと締めつけられた。

「今にあの忌々しい田舎娘共々追い出してやる」

 吐き捨てると、秩父はそのまま通り過ぎていった。


 その背中が小さくなってから、藤は肩を落とした。




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