―4―
「さあ」
経基が声を上げた。それだけで離れの間の空気がすっ、と整う。
藤は膝の上で揃えた指に力を込めた。
「今日は維茂からの贈り物だ。みな気楽に宴を楽しんでくれ」
経基が手招きをする。
下女たちが膳と瓶子を並べていく。
いつもの宴に比べるとずっとゆるやかで華やいだ雰囲気。
器の触れる乾いた音。酒の甘い匂い。肩の力が抜けるような、ゆったりとした空気。
ゆるやかな空気に、藤はようやく呼吸が戻るのを感じた。
腹に溜まっていた重さが、少しだけ薄くなる。
経基は満足そうにそれを眺めた後、静かに立ち上がった。
「では、な」
そして寝殿へ続く渡殿のほうへ向かう。
「殿」
さっと秩父が後を追うように動いた。
「……ご一緒してくださらないのですか?」
艶を含ませた声。扇をわずかに傾け、しなだれかかるように経基の袖をつまむ。
その仕草に女房たちの間の空気が揺れた。
藤もはっとして息をのむ。
……秩父は扇をちらっと動かして周囲を確かめた。反応を、うかがうように。
「私がいては皆の気が休まらないだろう」
経基は怒りもしない。拒み方すらやわらかい。
諭すように微笑みかけ、優しく秩父の手を外す。
「それに、あちらに維茂を待たせている。今日は皆で楽しんでくれ」
言い残して、経基は幾度か振り返りながら、渡殿へと去っていった。
秩父は寂しそうにそれを見送っていた。けれど、扇を握る手は白くなるほど力が込められていた。
藤はふっ、と息を落とした。
喉の奥が乾く。
同時に、胸がちくっと痛む。
秩父の行動は、焦りだ、と藤は思った。
普段ならここまであからさまな真似はしないはず。
理由は、考えなくてもわかる。
──殿は、紅葉に甘い。
わざわざ膝を折って声をかけたのも。さりげなく庇ったのも。
(優しさ、だけじゃない)
背中を冷たいものがなぞっていく。
"もしかしたら、殿は紅葉を室に選ぼうとしているのではないか"。
視界が遠のくような感覚。
腹の底が、ずしんと重たくなる。
浅くなる呼吸を整えるように、藤は深呼吸した。
◇◆◇◆◇◆◇
その夜。
月明かりが几帳の縁を薄く照らしていた。
消えかけの灯りが、御簾に映った影をゆらりと揺らす。
人の動く気配がなくなった屋敷は、虫の鳴き声すら聞こえないほどに、静かだった。
藤はそっと厨子棚に手を伸ばした。
一番底まで、指を伸ばす。一番奥にしまってある紙に触れる。それを手に取り、音を立てないように慎重に開く。
『紅葉』。
習いたての紅葉が、一生懸命書いた文字。
じっと、無言でそれを見つめる。
白い月光が、紙に書かれた無邪気な文字を照らしている。
(なにを、考えているの……)
頭の中の声。藤は、静かに首を横に振る。
(そんなこと、できるわけがない)
けれど。
"思いついてしまったこと"は、頭の中から消えてはくれない。
唇を噛み締める。
静かに奥へと仕舞う。
紙に触れる指が、震える。
(どんな手を使ってでも……家を、守らなきゃ)
藤は目を伏せた。




