―3―
夕刻。離れの間。
西日が傾き、燭台の灯りがまだらに板間、そして畳を照らし始める。
西からの光が、几帳をうっすら金色に染めていく。
香炉から漂う香りがふわっと流れてくる。さっきまでの騒々しさが嘘のように、穏やかな空気がただよっている。
手伝いを終えた下女たちは、すでに別の仕事を始めている。
どうにか、宴の支度は整った──らしい。
呉葉は隅っこでぼんやりとしたまま、離れの間を眺めていた。
あのあと。
屏風も几帳も、それから香炉も衝立も、全部呉葉が一人で運び終えた。さすがに肩は重たくなるし、膝も笑って震えている。
藤は呉葉に「いいから座ってて」とだけ告げて、離れの間から続く渡殿へ行ってしまった。
(あとで常陸さまに謝らなきゃ)
だんだん薄暗くなる西の庭を眺めながら、呉葉は思った。
約束したことをたくさん破った。
下女の仕事も"おかしなこと"も。
やってはダメと言われたことを、たくさんやってしまった。
(一人で行こう)
呉葉は心の中でそう決めた。
(怒られるのは、アタシ一人でいい)
ふと背後に人の気配がした。
「本当にとんでもない怪力なのね」
あきれたような声。振り向くと、秩父がそこにいた。
離れの間には誰もいない、と思って油断していた呉葉は、どきっとして体を硬くした。
続けて、秩父が言う。
「まるで人じゃないみたい」
胸がずきん、と痛んだ。まるで氷で突かれたみたいな痛みが走る。
……故郷でもさんざん言われてきた言葉。
怖がる表情。遠巻きにしてくる人影。飛んでくる石。
不意に目の前が歪んだ気がした。
(でも)
(アタシは間違ったことはしてない)
追い出されるのは、嫌だ。だけど力を見せたこと自体は後悔していない。
呉葉は歯を食いしばる。
「ねえ紅葉」
まるで誘うような声。
「お屋敷の女童たちは噂好き。……あなたの噂、屋敷の外まで広がってしまうかもね」
眉がぴくっと動いてしまう。
頭の中に、下女や女童たちがささやきあう声が蘇ってくる。
「……でもね、言って聞かせれば素直に従ういい子たちなの」
甘く、言い諭すような声色。
秩父はくすくすと笑った。
「さっきわたしの好意を無碍にしたこと、許してあげてもいいわ」
秩父は扇をゆったりと動かす。
呉葉はじっと無言で秩父を見た。
「あなたが今、頭を下げて謝るのなら、あの子たちを静かにする方法を教えてあげる。それに御香だけじゃなくてもっといいものもあげるわ」
扇の裏で、秩父がにやりと笑ったのがわかった。
「……どう? 悪い話ではないでしょう?」
「断る」
「……なんですって?」
瞬時に、秩父の顔から笑みが消えた。
呉葉は目をそらさずに続けた。
「断る、と言ったんだ。アタシは、なにも間違ったことはしていない」
秩父の眉が怒りに吊り上がる。
「どういう意味か、わかって言っているんでしょうね」
秩父の声が一気に低くなった。今にも噛みつかれそうなほど、鋭い眼差し。
呉葉は眉間に力を込めて、秩父を睨み返した。
喉の奥が熱くなる。
「知らない。けど、理不尽な噂なんかには負けたりしない」
ぎっ、と歯ぎしりが聞こえた。
秩父が、ばん、と強く扇を閉じる。
「いいわ。──後悔させてあげる」
秩父はさっと踵を返す。そのまま渡殿へと去っていった。
それを見送って呉葉はふうっ、と息を整えた。
(後悔?)
……今更?
──するもんか。
呉葉は、手のひらにぐっと力を込めた。
◇◆◇◆◇◆◇
しばらくして。
渡殿の向こうから女房たちがやってくるのが見えた。
先頭には常陸。それから藤もいる。
呉葉は背筋を伸ばし、膝を揃えて常陸たちが来るのを待った。
離れの間に入るなり、常陸は支度の整いを一望した。
香炉、几帳、そして屏風。座の並び。
その隣で藤が体を固くして座っている。
「この指図は、秩父の方のとおりですか」
常陸の短い問いに、藤が小さい声で「はい」と堪える。
背筋がぴりっと痺れる気がして、呉葉は息をのんでこらえた。
常陸は一度だけ頷いた。
「よろしい」
ほっ、としたのもつかの間、常陸の目線がこちらに来て、呉葉の胃がきゅっと縮みあがった。
藤の指先がびくっと震える。
「よく、間に合わせました」
落ち着いた、いつもの声。
叱られている? ……わけではないらしい。
……今は。
呉葉は胸の中がざわめくのを感じた。
そこへ足音が近づいてくる。
常陸はさっと横へ避けて、平伏する。藤やほかの女房たちもそれに続く。
経基が入ってきた。その後ろから、秩父も。
常陸の前で、経基は足を止めた。
「さすが常陸。一部の隙も無いな」
経基は扇の奥で笑う。常陸は平伏したまま答える。
「恐れ入ります。段取りは秩父の方が。……支度は藤の方が」
秩父の扇が僅かに揺れた。が、その裏の表情までは見えない。
「秩父か。よい色合いだな」
経基の後ろで、秩父の扇がゆるやかに動いた。
上品に、優雅に。
……さっきの怒りなど、微塵も感じられない。
(さっきのは、なんだったんだ)
呉葉は拍子抜けした。
続いて、経基は藤の前へ進む。
「藤。急な宴で大変だったろう。よくやってくれた」
藤の肩がぴくりと震えた。
「恐れ入ります」
息がこぼれるような、か細い声。張り詰めているのが、呉葉のいる場所からでもわかった。
そして、経基は呉葉の前まで来る。
「紅葉」
「はい」
そのままの姿勢で返事をする。経基がふっ、と笑うのが聞こえた。
「顔を上げよ」
呉葉は経基をまっすぐ見上げた。
呉葉に集まる視線。ささやき声。
女房たちが息をひそめた。
……藤の口が動くのが見えた。なにか言っている?
(そ、で)
──そで? あ。
呉葉は袖でぱっと顔を隠した。
経基の目が細くなる。
「随分と作法を覚えたようだな」
「うん。……じゃなくて、はい」
またやってしまった。せっかく藤が教えてくれたのに。
「それに、今日はだいぶ活躍したそうではないか」
どこかからかうような口調。
……もう、経基の耳にまで。
胸のあたりが疼く。
どこまで? どんなふうに?
申し訳なくて、ちらっと常陸と藤のほうを見る。
──でも。
後悔はしないって、決めたんだ。
呉葉は拳を強く握りしめる。
「えっと……ごめん、なさい」
呉葉は常陸の方を向いた。
「下女の仕事なのに、手を出してしまった」
「聞いております」
落ち着いた低い声。
藤は青い顔のまま下を向いている。
「藤の手伝いで、したのですか?」
「うん……」
そう答えながら、呉葉はつい視線を落とす。
常陸は小さく吐息をこぼした。
「善意は認めます。が、しでかしたことは頂けません」
怒られるのはわかってた。けど、やっぱり胸が苦しい。
経基の目が笑みを含んで、細くなった。
「常陸、あまり叱らないでやってくれ」
常陸が頭を下げる。
経基は女房たちを見回しながら、穏やかに笑みを浮かべる。
「ここの女房達は都しか知らぬ者が多い。
……自分はこれから坂東にもよしみを広げたい。
だから、都の外を知るものを女房として受け入れたかったのだ」
経基は呉葉の前でかがんだ。
「多少の不作法など、気にすることはない。
……お前は、お前のままでもいい」
経基が、優しく語りかける。
また周囲がざわめいた。羨望。妬み。……警戒。
呉葉は首を横に振った。
「それではダメだ」
経基の目がわずかに開いた。
「藤や常陸さまを困らせてしまう」
経基の目尻がやわらぐ。
「お前は、優しいのだな」
扇の裏で、経基が笑みを浮かべる気配がした。
……秩父の眉がぴくっと動くのが見えた。
「二人ともアタシが間違わないように教えてくれる」
呉葉は経基の目をまっすぐ見た。
「だから正しいことを覚えたいんだ」
「そうか」
再び経基は目尻を和らげた。
「はげめよ」
経基は体を起こした。
経基が通り過ぎていく。
続いて、秩父。
……その、通りすがりざまの一瞬。突き刺すような秩父の目つきに、呉葉はぞくっとした。
そのまま過ぎていく秩父の背中を、不安な思いを抱えたまま呉葉は見送った。




