―1―
「宴、ですか」
常陸の言葉に、藤は恐る恐る問い返した。
舌の裏がひりつくような感覚をこらえながら、藤はそっと目を上げた。
「維茂さまより酒と酒肴をいただきました。女房達にもおすそ分けせよとの殿のご好意です」
常陸は扇の奥で目をしかめる。
愉快、ではない。むしろ、不愉快を含んだ目。
藤はその違和感を飲み込み、わずかに顎を引いた。
「なお、今回は秩父の方が段取りをされるとのこと。……これから、顔を出してきなさい」
はっとして、体が固くなる。
段取り。宴の支度を、すべて取り仕切るのは、あの秩父の方──。
体の芯が冷たくなる。
常陸が、かすかに息を落としたように見えた。
「……あの方は無理難題をおっしゃることがあるから、重々気をつけるように」
「は、はい」
無理難題。
今のため息は、そういう意味か──。
それでも、受けなければならない。断る選択肢はない。
藤はもう一度、深く礼をした。
藤はそのまま秩父の局の前へと向かった。
御簾に移った香の匂いが、周囲に薄く残っている気がする。
外から声をかけ、返事を待つ。
たったそれだけなのに、すでに心が重たい。
「あら。あなたなの」
中へ入るなり、秩父が言った。
退屈そうに扇を揺らしている。
藤は指をそろえ、床に額が近づくほど身を伏せた。
「常陸さまに手伝っていただこうと思ったのに。まあいいわ」
下女が一枚の紙を持ち、目の前に差し出した。
「宴の段取り。殿もおいでになるのだから、足を引っ張らないでね」
秩父はいかにもめんどくさそうな顔をする。
藤は視線を伏せたまま紙を受け取る。
「じゃ、行っていいわ」
扇で追い払うようなしぐさ。藤の表情が固くなる。
──はやく、ここを離れたい。
藤は足取りからそれを気取られないように、後ろへ下がった。
局の外へ出て背を向けたとき、かすかな笑い声が聞こえた気がして、藤は唇をきゅっと結んだ。
「……っ、これ」
渡殿で紙を開いた藤は、肩を震わせた。
料理の品数が多い。材料の指定も細かい。紙を持つ指が白くなる。
しかも、盛り付け、出す順番、器の種類までも。
「今から、買いに出ないと……」
皿の枚数、調味料、材料の種類と数を、頭の中で数える。
藤は急いで人手を集めた。
「東市になければ四条河原まで行って探してきて。時間がないから急いで」
矢継ぎ早に指示を下していく。足早に散っていく下男、下女たち。北門から出ていくのを見届けて、ようやく一息つく。
(でも、まだ終わりじゃない)
紙に目を戻す。
「あとは掃除。今から取りかかれば……」
残りの人数で、急げば間に合う。間に合わせられる。
藤は頭の中で段取りを組んでいく。
そのとき、秩父つきの下女が滑るように入ってきた。
「秩父の方さまからです」
文を差し出されて、藤は怪訝に思いながらも受け取る。
下女はさっと礼だけして、返事も待たずに去っていった。
藤は、わずかに表情を曇らせた。
嫌な予感しかしない。文を開く。
中身に目を通していくうちに、藤の顔から血の気が引いていった。
「これ……無理だ……」
離れの間への場所変えと、屏風、几帳の模様替えの指示書き。
……今から?
人手があれば、わけもない。しかしその人手は、たった今北門から出ていってしまったところだ。
指先の感覚が薄れていく。藤はその場に立ち尽くした。
「……どうした? 藤」
その声に、藤は顔を上げた。紅葉が縁側を歩いてくる。
藤の表情に気づいたのか、紅葉の顔がさっとこわばった。
藤はかすれた声で言った。
「どうしよう……」
人手を出してしまったこと。追加の指示。模様替えの時間がないこと。
残した人数では、掃除だけで手一杯──。
「じゃあ、アタシが──」
紅葉がそう言いかけて、止まった。
(……それは、ダメ)
紅葉のことだから、自分がやる、と言うつもりだったのだろう。でも、それだけはダメ。
下男、下女の仕事を女房がやってはいけない。
常陸さまとも、そう約束していたはずだ。
それを紅葉は思い出したのだろう。
沈黙が落ちる。
ぐちゃぐちゃになりそうな頭で、藤は必死に考えた。
(……できません、とは言えない)
胸の底が、ずしんと重たくなる。
断れば秩父に笑われる。無礼者と罵られる。
それどころか"段取りもできない女房"の烙印が押されてしまう。……殿の目に、そう映る。
きっと、それが狙い──。
そうなったら、殿からの覚えも悪くなってしまう。
なにもかも、終わる。
(でも──)
……腹をくくるしかない。
藤は、歯を噛み締めた。
「アタシがやる」
紅葉が言った。
藤ははっと紅葉を見る。
「アタシなら、一人で全部できる。やれる。間に合わせるにはそれしかないだろ?」
「絶対ダメ」
藤は即答した。
「そんな目立つことをしたら、どんな噂になるか……」
「でも、それだと藤が困るんだろ?」
紅葉の目はまっすぐだ。まっすぐすぎて、まぶしいくらい。
ただ純粋に助けようとしてくれている。
「だけど……」
藤は言い淀んだ。
紅葉はまたあの怪力を出すつもりだ。たしかにそれなら、家具を一人で運べるだろう。
けれど紅葉の怪力が噂になれば、常陸さままで巻き込まれてしまうかもしれない。
それはきっと秩父さまの思惑どおり。
藤は首を横に振った。
「それでもダメ。……わたしが秩父さまにお断りを入れてくれば済む話だから」
諦めが声に出てしまっているのが、自分でもわかる。
「藤──」
紅葉がなにかを言いかける。
藤は首を振って、……無理に笑顔を作ろうとして、ぎこちなくなってしまった。
「いいの。……ありがとう」
どうにかそれだけ言うと、藤は局に向かって歩き出した。




