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―1―

 蔀戸しとみどの隙間から、朝の白い明かりがふわりと滲んでいた。

 几帳の影が畳の上に長く伸び、そこへ冷えた風がすうっと入り込む。夜露の名残が板間からじわりとのぼってきて、指先がきゅっと冴えた。


 藤は文を膝においたまま、指先で紙の端を何度もなぞっていた。

 読み返すたびに、胸の内側が硬くなって、重い石でも沈むみたいに気持ちが落ちた。


 下総の中ほど。

 沼が多く、雨が続けばあぜ道もすぐ泥に飲まれる。

 ……実家があるのはそんな土地だった。


 先の坂東の戦乱で、実家は"負けた"側にいた。

 世の春を謳歌できたのはほんの一瞬。あとは、ただ転げ落ちるばかりだった。


『郎党が逃げ出した』

『焼け落ちた荘は、まだ手もつけられない』

『このままでは、冬の備えも間に合わない』

 紙の上の文字は、キリキリと胃を突いてくる。

(わかってる。けど、どうしようもない……)

 今の藤には、質に入れる衣装も、換金できるような装飾品もない。

 縋れる伝手もなく、残っているのはご機嫌取りにもならない薄い笑みだけ。


(室に選ばれれば──)


 かすかな、望み。

 縁が繋がりさえすれば、実家へも手が届く。都の貴族なら、貧困にあえぐ地方貴族など、わけもなく掬い上げられるはず。

(……なのに殿は、いまだに室を選ぼうとはなさらない)

 このまま、望む機会すら得られないまま、冬を迎えるのだろうか。

 藤は沈んだ表情のまま目を上げた。


 まだ。

 やれることはある。

 なければ、探すしかない。どんな手を使ってでも。


 衣擦れの音が聞こえる。

 紅葉が起き出したのだろうか。

 藤はそっと文机に紙を伏せた。



「おはよう藤」

 眠そうな顔で、紅葉は衝立の向こうから覗き込んできた。

 藤もおはよう、と笑顔で返す。

「……どうした?」

 紅葉は怪訝そうに目を細める。

 都の作法は壊滅的なのに、こういうところの勘はやたら鋭い。

「ううん、なんでもないよ」

 こう言えば、この子はそれ以上深入りしては来ない。

 実家の窮状を知られたくない。悟られたくない。

 藤は"いつもの顔"を作って見せた。


「文、か」

 紅葉の視線が、文机の上に止まった。

 一拍だけ、鼓動が跳ねる。


 紅葉は少しためらうように目を伏せて、恥ずかしそうに下を向いた。

「やっぱり、読み書きはできたほうがいい、よな」

 藤は、口元をゆるめた。

 ……この子は、学ぶのに貪欲だ。

 『正室を目指す』なんて、無邪気に言えてしまうような子。


 都のことなんてなにも知らないくせに。視線の怖さも、噂の重さも。

 そんな思いを、藤は胸の奥深くに、ぐっとしまい込む。


「練習、してみる?」

「うん!」

 ぱっと花が咲くように、紅葉は笑った。

 まぶしい、と思う。羨ましいとすら感じる。


(この子を手放してはダメ──)

 頭の中で、暗い声が響く。

 不思議な力。光る蝶。

(──わたしだけが知っている、紅葉の秘密)

(それを、うまく使うことができれば)


 そんな声をかき消すように、藤は無理に笑顔を作った。

「……あんまり、字は得意じゃないんだけどね」

 文箱から筆と硯を取り出す。余っている紙も何枚か。


 見ててね、と言いながら、藤は紙の真ん中に大きく『藤』の字を書いていく。

 紅葉は肩越しにそれを覗き込む。

 ……文字の下の方が少し左によれてしまう。

 わかっていても、この癖はなかなか直らない。


「"ふじ"って、こう書くんだ」

「うん、次は……」

 もう一枚紙を取り出す。今度は『紅葉』と書く。

「……これ、"もみじ"?」

「そう。書いてみて」

 筆と紙を渡されて、紅葉は目を輝かせながら書き始めた。

 線はよれ、墨ははみ出し、ところどころ濃淡が乱れる。

「難しいな……」

 ちょこんと首をかしげる紅葉。

 その可愛らしさに、藤はつい、くすっと笑った。

「練習しないとね」

「がんばる。上手になりたい」

 紅葉はすぐ筆を握り直した。



 しばらくして。

「だいぶ上手に書けた、と思う」

 どこか得意げに、紅葉は書いた文字を見せた。

 上手とは、言い難い。でも、読める。

「うん、がんばったね」

 藤が言うと、紅葉は子供のように照れて、笑った。


 そこへ簾の外から声がかかった。

「紅葉の方さま、常陸の方さまがお呼びです」

 常陸つきの下女だ。

 紅葉はすぐさま立ち上がった。

「ありがとう藤。……また、字を教えてほしい」

「うん、またね」

 藤は早足で出ていく紅葉の背中に声をかけた。


 静かになった。

 硯の水面だけが朝の光をうけて小さく揺れている。

 あとには、墨の匂いと、手習いの紙。

 藤は、ふうっと息を落とした。


 手早く筆と墨を片付けていく。手習いの紙は、丸めて屑籠に。

 その捨てようとした手が、止まった。


(紅葉の、名前──を書いた、紙)

 ふと藤の心のなかに恐ろしい考えがよぎる。

(紙切れ。文字。名前。それがあれば──)


 迷い。嫌悪。指先が冷たくなる。

 藤は静かに目を伏せた。

(……使わない。とっておく、だけ)


 さっと周囲を確かめたあと、藤は呼吸を殺し、震える指で紙を手に取った。

 そして紅葉が最後に書いた一枚を棚の奥へとしまい、その扉を重く閉ざした。




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