―3―
呉葉は膳を持って、慎重に秩父の局に入った。
鼻の奥をくすぐるような、甘い匂い。御香というやつだろうか。山の草木の匂いと違って、香りが肺の中にまでまとわりつく。
局の中央には秩父。隅には下女が控えている。秩父は扇で口元を隠したまま、目だけがこちらの動きを追ってくる。
胃が重たくなる。
(大丈夫。さっき常陸のところでやったばっかりじゃないか)
呉葉は自分にそう言い聞かせる。
教わった仕草通りに、膳を置く。
その瞬間、汁椀が揺れて小さく音を立て、脈が止まりかける。
(落ち着いてやれば大丈夫)
息を止めたまま、慎重に手を離す。
扇の向こうで、くすっと笑い声がした。
「あら、ちゃんとできているじゃない。大したものだわ」
礼を言いかけて、危うく言葉を飲み込む。
呉葉は黙って頭を下げた。
目元しか見えないはずなのに、秩父の口元が楽しむようにゆるんでいるのがわかる。
秩父がさらっと言った。
「ああ、ついでにそこの香炉をどかしてくださる?」
呉葉は言われるまま、香炉に手を伸ばしかけて、止まった。
下男、下女の仕事に手を出すな。
常陸の声と、藤の顔がよぎる。
呉葉は秩父に目を向けた。
「それは、できない。……です」
秩父の眉が、ほんのわずかに動く。
「あら、どうして?」
声色はやわらかいまま。なのに扇の奥の目は笑っていない。
「常陸さまと約束したから。屋敷の、なんか、下がるって」
決まりごとはよくわからない。
……わからないけれど、約束した。それは、守らなければいけない。
「ふうん……」
秩父はそれだけ言って、黙った。
目つきだけでは、その奥にあるものは測れない。
やがて、ふっ。と笑う気配。
「……そ。じゃあいいわ」
ほっ、と胸を撫で下ろす。
呉葉は作法通りに両手をついて一礼した。
そして、局を出ようとしたところで……声が飛んできた。
「ちょっとお待ちなさい」
足を止め、秩父に向き直る。
(今度はなんだ)
緊張にすくみそうになる足に、力を入れて踏ん張る。
「今日は楽しかったわ。あなたにご褒美を上げる」
秩父が下女に手で指示する。下女は厨子棚から紐のついた小さな匂い袋を持ってきた。
この部屋と同じ匂いだ。
「これを持っていきなさい。都で流行っている御香くらい、覚えておくといいわ」
「え」
呉葉は戸惑った。
褒美? なぜ? もらっていいもの、なんだろうか。
考える暇もなく、下女は詰め寄るように一歩前に出て匂い袋を差し出す。
秩父は、それをじっと見ている。
受け取るまで帰してもらえそうにない。
「あ、ありがとう。……ございます」
おずおずと、手に取る。
匂い袋は、思ったよりも軽い。
秩父が扇の裏で満面の笑みを浮かべたのがわかった。
「大事になさいね。とても高価なものだから」
渡殿まで戻る。
すぐさま藤が心配そうに駆け寄ってきた。
「だ、だいじょうぶだった?」
その声はかすかに震えている。
呉葉は安心させるように笑みを作って、頷いた。
「なにか言われたり、されたりしなかった?」
「なんか変な感じだった。目をつけられたって藤は言ってたけど、ああいうことなのか」
「他には?」
藤の目は必死だ。呉葉はさっきの光景を思い出した。
「香炉を動かすように言われた。でも、断った」
藤の表情が一瞬固くなった。続いて、安堵の息が漏れる。
「……そ、そうなんだ」
藤の肩から緊張が抜けていくのがわかる。
「あと、これをもらった」
呉葉は匂い袋を見せた。
藤は眉をきゅっと寄せた。
そして、さっと顔を近づけ、匂いを確かめて……顔色が変わる。
「これ……沈香」
「じんこう?」
藤の指が震えながら匂い袋に触れる。
「すごく高価な御香……こんなもの、わたしたちが持っていていいものじゃ……」
言いかけて、藤がはっと息をのむ。
「──常陸さまと仲の悪い秩父さまからこんな高価なものを……。
この香りを身につけて歩いたら、懐柔されたというようなもの……」
藤はひとりごとのように漏らした。
「捨てたほうが、いいのか?」
呉葉は不安になった。
藤は、はっと呉葉を見た。
「それはダメ。
もらったものを捨てたりしたら、秩父さまの顔に泥を塗ることになる。
……あとで、なにを言われるかわからない」
藤は沈んだ表情で、匂い袋を呉葉に押しつけた。
「紅葉……これはすぐに葛籠の奥にしまって、絶対に誰にも見せないようにして」
「……わかった」
呉葉は短く返事をした。
とにかく、面倒なことに巻き込まれているのだけは、わかった。
香りひとつにも、誰の色がつくのか――それを思うだけで、肩が重たくなる。
「都は……難しいな」
ぎゅっと匂い袋を握りしめたまま、呉葉は小さくこぼした。




