―2―
「違う。膝で歩くの」
藤の声は優しいのに、容赦がない。
呉葉は言われるままに畳に膝をついて、腰を落とした。
「こう、か……?」
そのまま膝をなすりながら進む。
頭ではわかっていても、袴の裾は足に絡むし、膝が床板にこすれて痛い。
ぎこちなく、一歩、二歩。
両手は前か横。体が左右にふらつく。
「肩。動かさない」
「うっ……」
肩に力を入れると、今度は膝がうまく動かない。
こんなの、山道を駆け抜けるほうがよっぽど楽だ、と呉葉は思った。
「これ、ずっとやるのか?」
「お膳を持ったまま歩けるようになるまで」
いつになく、藤の声がきつく聞こえる。
うめき声が出る。
「膝が痛い……」
「がまんして」
泣き言を言いたい。けど、藤の目は真剣そのもの。
(がんばらなきゃ)と、呉葉は胸の内で繰り返した。
何度か往復したあと、今度は空の膳を持たされる。
音を立てないように運ぶ練習。
器が膳のなかで滑る。木のぶつかる乾いた音に、背中が冷える。
膝が、肩が、悲鳴を上げる。
ある程度運べるようになったところで、膳を置くように言われた。
ほっとして、その場にへたり込む。
「まだ。次は器の配置。絶対に間違えないで」
膳の上に、藤が空の器を並べていく。
茶碗、汁椀、強飯の椀。見た目は似ていても、置く位置には意味があるらしい。
「強飯の椀は必ず左に。汁の椀は右。お皿はこっちで四種器は右奥に」
「う、うん」
次々に器を差していく藤の指。それを追いかけているだけで目が回ってくる。
「食事のときには音を立てない。歯を見せない。口元は袖や扇で隠して。好き嫌いもダメ。袖が器に触れてはダメ。お箸を落とすのはダメ。お膳をまたいだりすることはもっとダメ」
一気に畳みかけられて、大量の言葉が耳の中で渦を巻く。
目がチカチカする。
「そんな、たくさん──」
「なに?」
覚えられない、と言いかけて飲み込む。
藤がすごく厳しい。
「今日は殿はいらっしゃらない。常陸さまの夕餉の配膳が当番。それまでに全部覚えて」
──ぜんぶ。
頭から湯気が出そうだ。
「お、多すぎる……」
つい弱音が漏れた。
藤に迷惑をかけたくない。そう言ったばかりなのに。
「でも、ここで認められるためにはがんばらなきゃ」
まっすぐ藤の目が見つめてくる。
その目だけは、裏切れない。裏切りたくない。
「……わかってる」
呉葉は小さく顎を引いた。
◇◆◇◆◇◆◇
夕餉の時間になった。
油皿の灯りが渡殿の板目にゆらりと落ち、夕方の冷えが足元から忍び上ってくる。
厨から膳が運ばれてくるのを、渡殿で受け取る。
立ち上る湯気と香り。
呉葉は、お腹が勝手に鳴りそうになるのを必死にこらえていた。
器の位置を確かめる。右、左。お椀がこっちで、強飯がこっち。
(……たぶん、合ってる)
それを持って縁側を進んでいく。
常陸の局の前まで来たところで、藤がささやく。
「気をつけて」
「うん」
深呼吸。ダメなことはたくさんある。……でも、だいたいは覚えてる。
呉葉は膝をついて進んだ。
局の真ん中に常陸が座っている。扇の向こうから視線だけが追いかけてくる。
呉葉は膳を静かに置いた。
膳の向き。箸の向き。呼吸を止めて、音を立てない。
指先の動きまで見られている気がする。
最後に指先を床について、一礼。
──できた。
少なくとも、なにも言われなかった。
呉葉は張っていた肩の力を抜いた。
そのまま下がろうとしたとき。
「いてっ」
足が畳の縁に引っかかった。袴の裾が畳の目に絡んでしまった。
声を出してしまってから、はっと口を閉じた。が、もう遅い。
藤の顔がさっと青くなるのが見えた。
常陸の目線が鋭くなる。
ぱちん、と扇を閉じる音。
藤の肩がぴくっと跳ねる。
全身が凍りつくほどの緊張。
(……でも)
逆に、頭が冴えてきた。
……大丈夫。
落ち着いて姿勢を整える。もう一度手を揃え、静かに頭を下げる。
そして今度は確実に、丁寧に、後ろに下がる。
藤の隣まで戻ってきたところで、呉葉は自分が息を止めていたことに気がついた。
そして沈黙。
膝の痛みさえ忘れるほどだった。
「……細かいところはいろいろとありますが、まあいいでしょう」
常陸の低い声。
藤がふうっ、と息をついた。
肩の力が抜ける。
と同時に、続きが飛んできた。
「紅葉。今日のあなたの無作法は全て、藤の責任になることを忘れぬように」
反射的に言い返しそうになって、こらえる。
まだ、ダメだ。
同じ失敗はしたくない。
常陸が、ふっ、と笑ったように見えた。
「今後も励みなさい。精進していれば、悪い噂など自然と消えるものです」
いつになくやわらかい声。
気のせい、かもしれない。でも、体のこわばりが少しだけほぐれた。
呉葉と藤は常陸に一礼して、退出した。
渡殿まで戻ってきて。
呉葉は、握りしめていた拳をほどき、深く息をついた。
「よかった……」
「声。大きい」
「……あ」
藤に言われてきゅっと口を結ぶ。
そして、ぷっ、と小さく吹き出す。釣られるように藤の口もほころんだ。
「藤のおかげだ」
呉葉はにっこりと笑った。
「今度は、ちゃんとできた」
「まだまだ、だからね」
すぐに藤が真面目な表情に戻る。
「"できた気になる"のがいちばん危ないの。畳の縁、踏んでた。足音。あと器も鳴った」
「でも、怒られなかった」
呉葉の言葉に、藤の表情がやわらかくなる。
「うん。……がんばったね、紅葉」
呉葉は、へへっと笑う。
釣られて、藤も笑顔になる。
胸に居座っていた重たさが、すっと軽くなる。
「あとは、秩父さまの膳も持っていかないとな」
そう言った瞬間、藤の表情がさっと曇った。今の笑顔が嘘のように消える。
「……それは、わたしが」
「でも──」
当番はアタシのはず。そう言いかける。
しかし藤は首を横に振った。
「いいの。紅葉は他の女房たちのを──」
藤が言い終わる前に、後ろから声が飛んできた。
「あら、わたくしには配膳してくださらないの?」
ぞわっとするような声。甘くまとわりつくような声、とでも言うべきだろうか。
呉葉と藤が振り向くと、下女を連れた秩父が立っていた。
扇で口元を隠しているのに、笑みを浮かべているのがわかる。
藤はとっさに頭を下げた。呉葉も同じく頭を下げる。
「常陸さまにも配膳なさるくらいだから、お作法の練習はなさったのでしょう?」
くすっと笑う秩父。
「わたくしも見てみたいわあ」
呉葉は眉をしかめる。
「秩父の方さま、配膳でしたらわたしが──」
藤が言いかけた瞬間、秩父は扇の上から鋭く睨みつけた。
「わたくしは紅葉の方にお願いしているの」
そして藤の耳元へ、そっと顔を近づける。
「──あなたの手は泥臭いの」
冷たい小声。
その瞬間、藤の表情が固まった。唇がかすかに震えている。
それに気づいて、呉葉は胸の中がきしっ、と鳴った。
この空気は、良くないものだ。
「いいよ、藤」
呉葉は藤をかばうように一歩前に出た。
「さっきみたいにやればいいんだろう? 大丈夫。藤が教えてくれたから」
秩父に一礼して、藤の袖を引く。
秩父は満足げに扇を揺らし、藤へ向けて追い払うような仕草をする。
「あなたは他のお仕事があるでしょう?」
あくまで口調はやわらかい。
しかしその目つきは明らかに相手を嘲っていた。
藤はぐっと拳を握りしめたまま、俯いている。
呉葉はもう一度、藤の袖を引いた。
藤は乱暴に涙を拭ってから、呉葉の後を歩き出した。




