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―1―

「遅くなりました」

 常陸の局の前で、藤が声を整えた。

「入りなさい」

 藤は半分上げられた御簾をくぐり、中へ。呉葉も、それに続く。

 空気がぴん、と張っていて、勝手に背が伸びる。

 御簾の向こうからほのかな御香の匂いが漂ってきて、かえって息がしづらい。

「紅葉を連れてまいりました」

 入ったところで藤は平伏する。それに習って呉葉も頭を下げた。


 常陸は扇で顔を半分隠したままだった。

 じっとこちらを見ている気配だけが肌に刺さる。


 やがて、常陸が静かに切り出した。

「紅葉。あなたは都の作法を覚える気はありますか」

 呉葉はまっすぐ常陸を見た。

「覚えたい。藤に迷惑をかけたくないから」

 常陸の目がすぼまる。それしか見えないから、怒っているのか、笑っているのかすら、わからない。

「よろしい」

 短い言葉。

 隣で、藤が息を殺している。

「では次のことを守りなさい」

 ぱちん、と扇を閉じる音が鳴る。


「ひとつ。庭に裸足で降りないこと。見苦しい」

「あれは、牛車が倒れそうだったから、とっさに──」

 つい口を滑らせる。

「ふたつ。口答えをしない」

 ぴしゃり。その言葉の強さに、口を閉じる。


「みっつ。下男、下女の仕事に手を出さないこと。屋敷の格式が下がります」

「…………」

「そしてよっつ。おかしなことはしない。噂の立つようなことはしない」

「……おかしなこと?」

 呉葉は訝しくて、小首が勝手に傾いた。つい言葉がこぼれ出てしまう。


 常陸は少し間をおいてから続けた。

「怪力。……あなたをまるで『人ならざるもの』かのように、口さがなく言う者たちもいます」


 背筋に冷たいものが走る。

 下男たちの怯えるような表情。

 下女たちのささやきあう声が蘇る。

 呉葉は唇をきゅっと結んだ。


「大げさだとは思います」

 常陸の声が、ふとやわらかくなる。

「都の外を知らぬ者たちからすれば、女性が重たいものを持ち上げるのを見て驚くこともあるのでしょう。

 ……が、噂は勝手に尾ひれがついてゆくものです」


 里でも、そうだった。

 好き勝手に言いたい放題。ひどい悪者かのように言いふらす者までいた。

 ……言いたければ、勝手に言え。

 呉葉はそう思っていた。無責任に悪口を言いふらす連中の相手をしていても、きりがない。

(けど──)

 それはここでは通用しない。

 呉葉は拳を握りしめた。


「作法や所作に関しては、藤やほかの女房たちを見て真似なさい」

 常陸の声。呉葉ははっと顔を上げた。

「それ以外については、あなたに学ぶ気があるのであれば、追々教えてあげます」

「学びたい」

 即座に口に出ていた。

 藤に青い顔で裾を引っ張られて、急いで言い直す。

「学びたい、です」

 常陸の目がわずかにゆるんだような気がした。

 再び扇が開かれる。

「よろしい。……では、夕餉の支度まで、控えていなさい」



◇◆◇◆◇◆◇



 局を出て戻る途中、明るい装束の女房とすれ違った。

 扇で顔を隠したまま、傍らには下女を引き連れている。

 呉葉は、その下女に目を留めた。赤い腰紐。……たしか、牛車騒ぎのときに見た気がする。


「あら藤。……と、新入りさんね」

「秩父の方さま」

 藤は立ち止まって軽く頭を下げる。呉葉も真似る。

「今朝はなにやら騒ぎがあったようだけれど。……常陸さまにお叱りでも受けていたのかしら」

 藤の声は小さく、硬い。

「いえ……そういうわけでは」

「そ」

 扇の裏で秩父はわずかに目をゆがめた。

 そして、無遠慮に呉葉を上から下まで眺める。

「そちらは……なんとお呼びすればよかったかしら?」

「くれは……じゃなくて、紅葉だ。……です」

 いつも通り答えかけて、慌てて付け足す。

(言葉遣い。気をつけないと)

 また藤が叱られてしまう。


 秩父がくすっと笑った。でも、目が笑っていない。

「聞けば、会津のお生まれだとか。そこはどのような場所ですの? わたくし、白河の関より先へは行ったことがなくて」

 藤の表情がこわばる。

 でも、里山の話をするのは嫌いじゃない。

 呉葉は表情をくずして話し出した。

「山は深くて、山菜や山鳥が良く獲れる。大きな湖もあって、魚や貝もたくさん獲れるんだ」

 言ってから、つけ加える。

「……です」

「……まあ。聞きしに勝る、みちのくの地ですのね。そのような所からはるばる上京とは、さぞ長い旅でしたでしょう?」

「うん。結構長かった。

 山もなんにもない土地を過ぎて、海のそばを通って。でも、結構面白かった、です」

 秩父がとうとう吹き出した。

 藤は顔をしかめたまま固まっている。

「本当に面白い子」

 扇の裏で秩父が言う。

「あなたの噂は色々と聞いているわ。……とんでもない力持ち、だとか」

「噂……?」

 また、噂だ。

 なにを言われているんだろうか。

 今更悔やんだって、もう遅いけれど。

 そう思いながら、呉葉は眉をひそめる。

「ええ、面白い話もたくさん。これから仲良くしましょうね」

 含みのある目つき。

 どういう意味だろう、と呉葉は思った。


「では、後ほど」

 秩父は扇をひらひらとさせながら、去っていく。

 下女が影のように、後に続いた。


 それを見送ってから、呉葉は小声で藤に話しかけた。

「今のって、夕べ藤が言ってた『秩父の方さま』だよな?」

「うん……」

 藤は秩父の背中をじっと見つめている。

 どこか訝しむような表情。

 呉葉は続けた。

「常陸さまと仲が悪いって言うからどんな人かと思ったけど……

 もしかして、そんなに悪い人じゃない、とか?」

「えっ」

 藤は驚いて呉葉を見る。

「仲良くしよう、って」

「今のは……そういうんじゃないと思う……」

 藤は言葉を選びながら口を開く。

「あれは……"目をつけられた"っていうことだから……」

 藤の表情が険しくなる。

 胸の奥底に、嫌な冷えがじわりと広がった。


「とにかく……これ以上、目立たないようにしなきゃ」

 藤は、ぽつりとつぶやいた。




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