―1―
木々の枝先には、気の早い紅や黄色がぽつぽつと混じりはじめていた。
葉の間から差し込む強い日差しが、せせらぎの水面できらきら跳ねる。
石を撫でる水音が、耳の奥まで涼しくしてくれる。遠くでは蝉が遠慮なくわめいていて、夏の名残をぶつけてくる。
呉葉にとって、人が近寄らない山の沢は、息のしやすい場所だ。
葛の根と栃の実をいっぱいに採った籠を川岸の岩の上に置き、こわばった肩をぐるっと回す。
細い体つきのわりに、腕や背中にはしなやかな筋がついている。長くおろした前髪が汗で頬に張り付いて、やたらとうっとおしい。
静かに周囲の気配を確かめる。
鳥の鳴き声。木々を通り抜ける風の音。草木と水の匂い。
──誰もいない。誰も見ていない。
(なら、いっか)
髪を覆っていた幅広の濃茶色の頭布をほどき、丸い岩の上へ静かに置く。
麻の小袖と袴も脱いで、枝へ引っかけた。
それから、ばしゃばしゃと水を割って流れに身を沈める。
山を歩き回って火照った肌に、冷たさがじわっと沁みる。
大きく息を吸い、膝を折って、ざぶん、と潜る。
頭のてっぺんまで沈めると、汗ばんだ髪が一気に冷やされていく。
ほどけた髪が水の中で揺れる。
息が苦しくなってきたところで、川底を蹴って立ち上がる。勢いよく水面を破ると、ぱしゃ、と水が弾けた。
腰ほどもある長い黒髪から、ぽたぽたと水が滴り落ちる。滴は珠になって連なり、肌を滑って落ちていく。
陽に焼けた肌が光を照り返している。心地よい熱を全身で感じながら、そのままの姿勢で空を見上げる。
呉葉はゆっくり両手を伸ばした。
ふーっ、と息を吹く。
水面に映った自分の目が紅く光るのが見える。同時に、体の奥が、かっと熱くなった。
吐いた息がほのかに淡く光りはじめ、次第に集まって蝶の形にまとまっていく。
だいぶうまく作れるようになった。
最初はもやっとした光の塊だったのが、今はちゃんと翅の輪郭まで出せる。
……なのに。
里の者はこの術を"人ならざる力"、と恐れる。
向けられるのはいつも、怯えるような目つき。そして嫌悪の表情。
胸の内側がちくりと痛む。いっそ慣れたはずなのに、毎回ちゃんと痛い。
呉葉は小さく舌打ちした。
赤子は喜んでくれた。怖がっているのは、いつだって大人たちだけだ。
息を吐ききって、もう一度手を広げる。指の間に煙みたいな光が絡みつき、また新しい翅を形作っていく。
"この術を人前で使うな"。
父が、きつく言う声が頭の隅で聞こえる。
(なら人前じゃなきゃ、いいってことだよな)
再び息を吹いて、光る蝶をもっと増やしていく。
……そのとき。
木の葉や枝を踏む音が近づいてくるのに気づいた。
はっ、として息が止まる。
「おーい経基ー?」
男の声。
(人? こんなところに?)
呉葉は蝶を急いで手でかき消した。煙は形を失い、風に紛れて消えていく。
そして、濡れたままの髪に大急ぎで頭布を巻きつける。
指が焦って震える。なかなか布をうまく結べない。ぐいっ、と引っ張って、乱暴に縛り目を作る。
「どこにいる? おーい──」
せせらぎの向こう岸までは、だいたい十歩ほど。
茂みから、ぬっ、と顔を出したのは、背の高い若い男。
見知らぬ顔だ。
狩衣に太刀。頭には烏帽子。広い肩幅で、がっしりとした体つき。
でも、猟師の雰囲気とは違う。立ち姿としぐさに、気品と余裕がある。
──目が、合った。
「なんだお前!」
ぞわっ、と全身が粟立つ。
心臓が跳ね、喉がきゅっと狭くなる。
呉葉はとっさに近くの岩陰にしゃがんで、身を隠した。
(里からも山道からも外れた場所なのに、なんで?)
肌着すら纏っていない姿を見られたことよりも、頭布を着けていないところを見られたかもしれないことに、ひどく焦る。
そっと指で頭布に触れる。大丈夫。ずれている気配はない。
「なに、っていうか……人を探してるんだが」
男は呉葉の裸など興味がないかのように、困った顔を向けた。
呉葉は岩の陰から顔だけ出して、男を睨みつけた。
「どこから来た! ……いつから見てた!」
「はあ? ……ガキの水浴びなんざ見ねえよ」
男はむっとした表情で言い返した。
「ガキじゃない!」
かっ、と血が上る。
──髪上げの儀ならとっくに済んでいる。ガキ呼ばわりされる筋合いはない。
呉葉は片手で水中を探り、人の頭ほどもある大きな石を掴んで持ち上げた。
それを見て、男は目を丸くした。
「は? なんだその馬鹿力!」
呉葉は男の足元に石を投げつける。
ばしゃん、と大きな水音。はねた水が狩衣の胸元まで跳ね、男はびしょ濡れになった。
男の顔が、たちまち怒りで熱を帯びたように赤くなった。
「てめえ、なにしやがる!」
呉葉はもう一つ石を掴み上げる。
「とっとと去れ! 次は当てる!」
「んだとこの!」
男は水を乱暴に蹴立てながら、川の中へ踏み入って来た。
(頭、はマズい。死なせてしまう。足か、腕だ)
石を投げようとかまえた、そのとき。
「おい、維茂。ここだ」
別の茂みが揺れた。もう一人、男が姿を見せる。
こっちはもう少し歳上だろうか。背丈は同じくらいだが、ずっと華奢に見える。
同じく狩衣に烏帽子。しかし、布地の艶が違う。手には扇を持っている。
「水浴び中の女子に迫るのはいただけないな」
からかうような口調。
「……それとも、羽衣の天女でも見つけたかな?」
「なんだ経基、そこにいたのかよ」
維茂と呼ばれた若い男が、ほっとした顔をした。
(こいつら、仲間……?)
見知らぬ男が二人。自分の無防備な姿に、呉葉はさすがに背筋が冷えた。
「なんなんだお前ら!」
威嚇するように声を荒げる。
動きを目で追いながら、ちらっと木の枝にかけた小袖に目をやる。届くだろうか。間に合うだろうか。
岩で身を隠したまま、じりっ、と岸に近づく。
「大変失礼した」
経基と呼ばれた男は、扇で口元を隠している。
言葉遣いは、やけに丁寧だ。それが逆に落ち着かない。
「……このあたりに住まう娘か?」
そのとき。経基の視線が頭布に一瞬だけ動いた気がした。
鼓動が一拍飛ぶ。
呉葉はさっと頭布を手で抑えた。
「……お前らはどこの者だ」
油断なく睨みつける。
経基はわずかに顎を引いた。
「私は源経基という。こっちは平維茂。
偶然とはいえ水浴びを邪魔してしまったことをお詫びしよう。
……名を、うかがってもよろしいか?」
その表情や声色は穏やかで落ち着いている。
経基は維茂に手招きをして、距離をあけさせた。
ようやく、呉葉の肺に空気が戻る。それでも視線は相手から外さない。
「呉葉」
慎重に様子をうかがいながら、呉葉は短く答えた。




