エピローグ
ウィーンを離れて、三度目の春が巡ってきた。
ザルツカンマーグートの湖畔は、今、柔らかな陽光と色とりどりの高山植物に彩られている。冬の間、すべてを白く覆い隠していた雪は、澄んだ雪解け水となって湖へ注ぎ、鏡のような湖面を穏やかに揺らしていた。
かつては「逃避行の目的地」だったあの石造りの別荘は、今では二人の「家」となっていた。
「……ラファエル、あまり遠くへ行かせないで。まだ足元が覚束ないのだから」
テラスでハーブティーを淹れていたアレクサンドラが、可笑しそうに声を上げた。視線の先では、かつて「伝説のボディーガード」と恐れられた男が、一人の小さな少女と草原を歩いている。
「大丈夫だ。彼女は君に似て、意志が強い。自分の足でエーデルワイスを見つけたいと言い張って聞かないんだ」
ラファエルが振り返り、穏やかに微笑む。その横顔には、かつて王宮で、あるいは裏社会で彼を縛り付けていた峻厳な影はもうなかった。目尻に刻まれた微かな笑い皺は、この数年間に彼が手に入れた「幸福の証」だった。
彼は少女――二人の愛の結晶である三歳の娘、エルザと芝生の上にそっと座った。エルザは、母親譲りの輝くような金髪をなびかせ、父親譲りの強い光を宿した瞳で、一生懸命に小さな花を探している。
「パパ、あった!白い、ふわふわの花!」
エルザが誇らしげに掲げたのは、岩陰にひっそりと咲いた一輪のエーデルワイスだった。ラファエルはその小さな手を取り、かつて誰よりも冷酷に銃を握ったその指先で、愛おしげに娘の頭を撫でた。
「ああ、見つけたね。それは、どんな嵐にも負けない、強い花だよ」
アレクサンドラは、その光景を眩しそうに見つめていた。彼女は今、ウィーンの財団の「名誉顧問」として、遠隔で慈善活動を続けている。しかし、もう完璧なマドンナを演じる必要はない。彼女の言葉は、今や等身大の、一人の経験豊かな女性としての重みを持って世界に届いている。
ラファエルがエルザを連れて、テラスに戻ってきた。アレクサンドラが差し出したカップを、彼は当然のように受け取る。指先が触れ合う。それはもう、契約による接触でも、極限状態での救済でもない。
「……ラファエル。時々、怖くなるの。あの吹雪の夜が、まだ夢だったんじゃないかって」
アレクサンドラがふと漏らした言葉に、ラファエルは彼女の肩をそっと抱き寄せた。彼の腕の温もりは、あの夜よりもずっと力強く、確かな現実としてそこにあった。
「夢じゃない。君が私を救い出し、私が君を選んだ。その結果が、今ここにあるすべてだ」
ラファエルは、リビングの壁に飾られた小さな額縁に目をやった。そこには、あの日、彼がアレクサンドラを突き放すために脱ぎ捨てた、血のついた黒い革手袋が、今は美しく洗浄され、平和の象徴として収められている。
「私はもう、君の『盾』ではないけれど」
ラファエルは彼女の耳元で、甘く、深く囁いた。
「君の隣で共に歩む『夫』として、この命が尽きるまで、君とエルザの笑顔を、世界の何からも守り抜くと誓おう」
アレクサンドラは彼の胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。そこにはもう、硝煙の匂いも、雨の冷たさもなかった。ただ、春の風に乗って運ばれてくる花の香りと、最愛の男の、揺るぎない鼓動だけが響いていた。
「愛しているわ、ラファエル。……私の、本当の守護天使」
湖面に反射する夕陽が、二人のシルエットを黄金色に染め上げていく。かつて孤独だった「至宝」と「盾」は、今、名もなき幸福な家族として、永遠に続く春の中にいた。
最後まで、ありがとうございました。




