第三章
アルプスの夜は、深い。窓の外で唸り始めた風の音が、やがて来る破滅の序曲のように部屋の静寂を揺らしていた。
暖炉の火を見つめながら、ラファエルは銀色に輝く愛銃を磨き上げていた。その動作に迷いはない。だが、彼の瞳に映っているのは、武器の金属光沢ではなく、ソファで浅い眠りについているアレクサンドラの横顔だった。
数日前、この湖畔で彼女が漏らした「ずっとここにいられたら」という言葉。それは、ラファエルの乾ききった魂に降った、あまりに甘く、残酷な雨だった。
(……許されるはずがなかったのだ、最初から)
彼は自嘲気味に口角を上げた。かつて王女クリスティーナを失ったあの日、彼は「愛」という感情を葬ったつもりでいた。しかし、アレクサンドラが凍った湖の上で見せた無邪気な微笑みや、キッチンで共に作ったカイザーシュマレンの温かさが、彼の中に眠っていた「一人の男」を無理やり呼び覚ましてしまった。
彼女を愛している。主君としてではなく、守るべき象徴としてでもなく、ただ一人の、あまりに愛おしく、脆い女性として。
だが、彼が彼女を愛せば愛するほど、彼女の「名誉」という名の命は削られていく。世間にとって、彼は「落ちぶれた誘拐犯」でしかなく、彼女は「堕ちた聖女」に仕立て上げられる。
「……私の愛は、君を殺す毒でしかない」
ラファエルは立ち上がり、静かに彼女に歩み寄った。眠る彼女の頬に、手が触れそうになる。しかし、彼はその手を強く握りしめ、自分に禁じた。
今夜、彼女の叔父の放った追っ手が来る。彼はそれを確信していた。そして同時に、自分の取るべき最後の行動も決めていた。
それは、彼女を守り抜くこと。そして、彼女の記憶から、自分との愛の日々を「間違い」として消し去ることだ。
「アレクサンドラ。君を光の世界へ戻すためなら、私は喜んで君の敵になろう」
彼はポケットから、かつて王室を追われた際、床に転がっていたあの銀の徽章を取り出した。汚れ仕事に身を落としても、捨てられずに持っていた、彼の屈辱と誇りの象徴。それを、彼女がいつも大切にしていたサファイアのネックレスの隣に、そっと置いた。
(これが、私の最後の嘘だ)
彼が彼女を拉致したのだと、無理やり連れ回したのだと、彼女が証言できるように。彼女が「被害者」としてウィーンへ凱旋し、再び「至宝」として輝けるように。そのためには、彼はここで死ぬか、あるいは永遠の罪人として消え去るしかない。
その時、遠くで雪を蹴立てるエンジンの音が響いた。闇の向こうから、冷酷な光が近づいてくる。
ラファエルは、最後の名残を惜しむように彼女を一度だけ見つめ、それから一瞬で、表情からすべての「人間」を消し去った。
「……起きてください、アレクサンドラ様」
声は氷のように冷たく、峻厳な壁となって彼女との間に立ちふさがった。驚いて目を覚ます彼女。混乱する彼女に、彼はあえて追い詰めるような言葉を投げかける。
それは、愛しているからこそつく、血を吐くような嘘の始まりだった。
彼にとって、この戦いは敵との戦いではない。自分の中に芽生えた、彼女と共に生きたいという「あまりに美しい欲望」との戦いだった。
「行ってください。あなたの歩むべき道は、まだ光に満ちている」
地下の扉を閉める瞬間、彼は自分の心臓をそこに置き去りにした。背後で迫り来る敵の足音。彼は銃を構え、孤独な守護天使として、嵐の中に立ち尽くした。
これが、彼がアレクサンドラに捧げる、最初で最後の、そして最も純粋な「愛」の形だった。




