第二章
王宮を追われてから三年の月日が流れた。
かつて「王室の誇り」と謳われた若き近衛官の面影は、今のラファエルには微塵もなかった。ウィーンの片隅、場末のボクシングジム。彼はひたすらサンドバッグを叩き続け、肉体を極限まで追い込むことで、脳裏にこびりついた雨の夜の記憶をかき消そうとしていた。
今の彼は、裏社会で「氷の盾 (アイス・シールド)」と呼ばれるフリーの警護員だ。どんな過酷な任務も、どんな凶悪な標的も、彼は眉一つ動かさず、機械のような正確さで排除する。報酬さえ払えば、彼は命を懸けて標的を守り抜く。そこに「感情」が入り込む余地など一切なかった。
「……ラファエル。客だ」
ジムのオーナーが、顎で奥の事務所を指した。そこには、煤けたジムにはおよそ不釣り合いな、気品あふれる老紳士が座っていた。
「久しぶりだな、ラファエル」
ラファエルは、タオルで汗を拭いながら、鋭い眼差しを向けた。
「その名は捨てた、マクシミリアン卿」
そこにいたのは、アレクサンドラの父であり、ウィーン屈指の慈善団体のトップとして知られた、先代の理事長だった。彼はかつて王室の顧問も務めており、ラファエルの過去の「事件」の全容を知る数少ない人間の一人だった。
「君にしか頼めない仕事がある。私の愛娘、アレクサンドラの護衛だ」
「断る。私はもう、高貴な女性の遊び相手をするつもりはない」
ラファエルは即座に背を向けた。
「遊びではないのだよ。私の体はもう長くはない。私が死ねば、ハイエナたちが娘を食い散らかしに来るだろう。彼女は美しすぎ、そして純粋すぎる。あの子を守るには、並大抵のボディーガードでは足りない。……『愛』を知り、それを絶望と共に葬り去った、君のような男でなければならないのだ」
ラファエルは振り返った。
「……私を侮辱するのか。私は王女を失い、国を追われた男だぞ」
「だからこそだ」
マクシミリアン卿は、静かに一枚の写真をテーブルに置いた。
「彼女を見てくれ。彼女は、かつての君の主君とは似ても似つかない。だが、この瞳の奥にある孤独を見て、君が何も感じないのなら、私は黙って立ち去ろう」
ラファエルは、忌々しそうにその写真を一瞥した。そこに写っていたのは、白いドレスを纏い、オペラ座のバルコニーで完璧な微笑みを浮かべるアレクサンドラの姿だった。
一瞬、鼓動が激しく波打った。
彼女は美しい。だが、その美しさは、彼女自身の魂を窒息させている「重荷」のように見えた。何千人もの聴衆に囲まれながら、彼女の瞳は誰の助けも届かない、深い絶望の淵に浮いているように見えたのだ。
かつての王女クリスティーナが持っていた「天真爛漫な情熱」とは正反対の、静かで、冷え切った孤独。
「……あの子は、『ウィーンの至宝』という虚像の中で、独りで戦っている」
マクシミリアン卿の声が、ラファエルの胸の奥深くに突き刺さる。
「彼女を守るために、君のすべてを貸してほしい。君が恐れている『愛』など、彼女は決して求めないだろう。彼女もまた、誰も愛さないことで自分を守っているのだから」
ラファエルは、ゆっくりと写真を手に取った。指先が震えているのを、彼は隠さなかった。
「……条件がある」
「何かな?」
「私が守るのは、彼女の『命』と『名誉』だけだ。彼女が何を求めようと、私は彼女の心に触れない。そして、彼女が私に触れることも許さない」
「ああ、それで構わない。それが君にとっても、彼女にとっても、最も安全な契約だ」
マクシミリアン卿は、満足げに微笑んだ。だが、その微笑みには、ラファエルが見落としていた、ある種の「確信」が混じっていた。
ラファエルは、暗いジムの窓から、ウィーンの夜景を見つめた。再び、誰かを守るために銃を握る。それは、彼にとっての「救済」ではなく、自らに課した「永遠の刑罰」の始まりだった。
鏡の中の自分に、彼は冷酷に言い聞かせる。
(彼女を愛してはならない。彼女を人として見てはならない。私はただの、血の通わない盾になるのだ)
しかし、運命は非情だった。
数週間後、オペラ座のパニックの中で、震えるアレクサンドラの体をその腕に抱き留めた瞬間――ラファエルは、自分が築き上げてきた氷の壁が、彼女の吐息一つで脆くも崩れ去ることを、まだ知る由もなかった。




