第一章
前作『聖母と守護天使の逃避行』のスピンオフの物語になります。
雨が、王宮の白い大理石を容赦なく叩いていた。
数時間前まで、そこは国中で最も安全で、最も優雅な場所であるはずだった。しかし今、若き近衛官だったラファエルの前に広がっているのは、砕け散ったクリスタルの破片と、主を失った無惨な私室の残骸だけだった。
「……私の、せいだ」
ラファエルは、冷たい床に膝をついた。手のひらには、犯人との格闘で負った傷から血が滴っている。だが、その痛みさえ、胸を引き裂くような絶望に比べれば、無に等しかった。
彼の脳裏には、数時間前の光景が呪いのように焼き付いている。
護衛対象であり、彼が密かに、そして許されぬ想いを寄せていた王女クリスティーナ。彼女はバルコニーから雨を眺め、背後に立つ彼に、悪戯っぽく微笑みかけたのだ。
「ラファエル、今夜だけは、軍規のことなんて忘れて。私を一人の女性として見てくれない?」
その瞬間、彼の「盾」としての規律に、わずかな亀裂が入った。王女が差し出した白い指先。それに触れたいと願ってしまった、一瞬の「人間としての揺らぎ」。その隙を、闇に潜んでいた刺客は見逃さなかった。
閃光。爆鳴。そして、彼が意識を数秒だけ失った間に、彼女は霧のように消えていた。
「立て、ラファエル」
冷酷な声が、背後から響いた。振り返ると、そこには国王夫妻と、かつての同僚たちが冷ややかな視線を向けて立っていた。国王の瞳にあるのは、娘を失った悲しみ以上に、近衛隊の「不祥事」に対する激しい憤怒だった。
「お前は、この国の誇りである王女を、己の未熟さと卑俗な感情によって売ったのだ」
「……弁明の余地は、ございません」
ラファエルは、低く、掠れた声で答えた。彼の手袋が脱がされ、近衛隊の証である徽章が、国王の手によって無造作に引き千切られた。銀色の徽章が冷たい床に落ち、硬質な音を立てて弾ねる。それが、彼の人生が死んだ音だった。
「名誉を剥奪し、追放する。二度と、この国の土を踏むな。お前が守るべきだった王女は、もはやお前の名を知ることもないだろう」
王女クリスティーナは、後に隣国の国境近くで発見された。命に別状はなかったが、誘拐されたという事実は王室にとって致命的なスキャンダルとなり、彼女は幽閉に近い形で他国へ嫁がされることが決まった。彼女が去る日、ラファエルは遠く離れた場外のぬかるみの中で、ただ沈黙してその馬車を見送った。
彼女の尊厳を、未来を、そしてあの輝くような微笑みを奪ったのは、敵ではない。自分自身の内に宿った「愛」という名の毒だったのだ。
「二度と……」
ラファエルは、血の混じった雨水を握りしめた。
「二度と、誰も愛さない。二度と、誰も私を愛させてはならない。私はただの盾だ。心を持たぬ、壊れた盾として死ぬのだ」
それから数年。彼はウィーンの裏社会で「名前のない影」と呼ばれるようになった。誰とも交わらず、誰にも微笑まず、ただ依頼主を守り抜くためだけに、その強靭な肉体を使った。
彼の心は、あの雨の夜から一歩も動いていない。アルプスの雪のように冷たく、深い、永遠の冬の中に閉じ込められていたのだ。
あの日、ウィーンの歌劇場の前で、フラッシュの光に怯えるアレクサンドラの瞳に出会うまでは。




