婚約破棄され「彼女だけを守る」と告げられた伯爵令嬢~承りました、どうぞ末永くお幸せに! 婚約破棄を止める? いえ、お断りいたします!
雲ひとつない夜空に満月が冴え渡るその夜、伯爵令嬢イリアス・クローディアは、春の舞踏会が開かれる王立学院の庭園──その噴水前を、微笑を湛えたまま、優雅に後にした。
白磁のような指先でスカートの両端を摘み上げると、深紅のドレスが静かに揺れる。重厚な布地は広がりを持ちつつも、彼女の一歩に従い、美を形づくっていた。
「イリアス様、今宵も麗しい」
「あぁ……彼女一人で場の空気をすべて持っていくようだ」
「もう、レオン様ったら。イリアス様ではなく、私を見てくださいませ」
「悪いなリズ。もちろん一番に見ているのは君だよ。ところで……イリアス嬢はなぜ一人なのだろうか」
婚約者がいる者は、パーティーには相手と参加するのが習わしとなっている。イリアスは、アーデルハイド侯爵家三男のユリウスと婚約していた。
──だが、彼女の隣にユリウスの姿はなかった。
これまで有力貴族のパーティーでは、二人はいつも並んで出席していた。
銀糸のような髪にアイスブルーの瞳を持つ端正な顔立ちのユリウスと、情熱的な赤髪に新緑のようなエメラルドの瞳を持つイリアス。誰もが認める美男美女のペアは、常に注目の的だった。
そのため、一人で歩むイリアスの姿に、周囲は違和感と疑念が広がっていく。
噴水の陰や柱廊の裏では、早くも好き勝手なことを言い始める者がいた。
しかし、イリアスは微笑を湛えたまま、ひるむ様子もない。
ただ、右手の人差し指に僅かに力が入り、髪と同じ深紅のドレスが、誰も気づかないほどにわずかに形を変えた。
噴水の水音が止んだように感じられた、その瞬間──。
舞踏室の扉が開き、漏れ出すモデラートなワルツの調と共に、イリアスはよく見知った一団が入ってくるのを見た。
その先頭にいたのは──。
「ユリウス様がお越しになりましたわ」
「でも、隣にいるのはマリアンヌ嬢?」
淡いパープルのドレスに身を包むマリアンヌは、胸元が大きく開いた妖艶な装いだった。小柄で蜂蜜色の髪の少女は、これまで学院では素朴で愛らしいと評判だった。
しかし、ユリウスの横に立つ彼女の印象は、根本から覆されていた。
(ようやく捻じれた尻尾を見せたわね、マリアンヌ……)
イリアスは誰にもわからない程度に、口角を一瞬だけ上げた。
ユリウスはイリアスを見下すような視線を向けた。銀糸の髪に薄く笑う唇──だが、その瞳には自分しか映っていなかった。
「ユリウス様、これはどういうことでしょうか?」
「どういうこと? 少し誤解があるようだね、イリアス。僕とマリーが一緒にいることは、自然なことさ」
「まぁ、ユリウス様ったら。恥ずかしいです」
ユリウスはわざとらしく肩をすくめ、マリアンヌは合わせるように身体をくねらせ猫なで声を出した。
「マリアンヌ、あなたもどういうつもり?」
「イリアス様、目が怖いです。生徒自治会でも、いつもそうやって私に意地悪しましたよね。ユリウス様は親身に相談に乗ってくれました」
「イリアス、君の悪事は明らかだ。自治会における指導員の立場を利用し、マリーに慣れない仕事を押しつけただけでなく、陰湿ないじめを繰り返していた。このことは多くの者が証言している」
「イリアス様が、マリアンヌに厳しく叱責しているところを見ました」
「俺も、イリアス嬢がマリアンヌに机一杯の書類を押し付けて、さっさと引き上げるところを見たぞ」
イリアスを非難する声を一斉に上げたのは、ユリウスと共に入ってきた取り巻きたちだった。
彼らは高位貴族の子息子女で構成され、学院内でも風紀を乱す行為を繰り返していた素行不良の子弟たちだった。
今回も、ユリウスにそそのかされ、イリアスを一方的に痛めつけることに悦を感じているのだろう。
取り巻きたちの声を聞いた周囲が、徐々にざわめき始める。
「まぁ……イリアス様は、そんなお方だったの?」
「どうりで、いつも冷たい目をしていると思った」
好奇と非難を一身に受けるイリアスは、反論するわけでもなく、黙って瞳を閉じた。
その様を見て、イリアスが観念したと判断したユリウスは最後通牒を叩きつけた。
「イリアス・クローディア。今日この場で、君との婚約を破棄する! 冷酷非道な女は、この僕にふさわしくない! そして、ここに宣言する。ユリウス・アーデルハイドはマリアンヌ・ルクレールと婚約し、生涯、守り抜くことを」
「……あぁユリウス様、私は今とても幸せです。私、マリアンヌ・ルクレールも、生涯ユリウス・アーデルハイド様を支え続けると誓います!」
ユリウスは自らの発言に酔っているのか、その瞳は怪しい光を宿していた。マリアンヌも、イリアスは眼中にない様子で、涙を浮かべながら、はしゃいでいる。
(茶番ね……実にくだらない)
心ではそう思いながら、一切表情を変えることなく、イリアスはまるで事務仕事のように淡々とユリウスの真意を確認する。
「……ユリウス様。今の発言、二言はないということでよろしいですか?」
「無論だイリアス。残念だが、君が招いた末路だ」
「……婚約破棄の件、イリアス・クローディア、爵位契約の破棄としてしかと受けとめました」
イリアスは深紅のドレスの裾を両手で摘み、膝を軽く折って優雅に礼をした。
「おめでとうございます! ユリウス様」
「誠の愛の勝利だわ!」
「ユリウス様、マリアンヌ、お幸せに!」
周囲を欺いてきた悪女は、正しきユリウスとマリアンヌの前に屈した── 誰からともなく、そんな空気が広がっていく。
そして、二人を称える声は怒涛となり、庭園全体を拍手と共に包み込んだ。
「物わかりが早くて助かる。あと、君の御父上には既に駅馬で書状を送ったから」
「はい……」
(……普段は面倒なことを一切しないのに、随分手際が良いわね。これはマリアンヌの差し金かしら?)
イリアスは姿勢を維持したまま、思案を巡らせる。
(イリアスのやつ……やけに素直だな)
ユリウスは、イリアスがあっさり婚約破棄を受け入れたことに拍子抜けしていた。
婚約して以来、イリアスがユリウスに逆らったことは一度もない。理不尽とも言える指示にも黙々と従ってきた。しかし今回ばかりは、反論くらいはしてくるだろうと予想していた。
生家であるアーデルハイド家は侯爵、イリアスのクローディア家は伯爵。段位としてはユリウスの家が上となる。 貴族として、ユリウスの意向にイリアスが従うのは、至極当然なことだった。
だが、そのエメラルドの瞳は、全てを見透かすように思えて、ユリウスは常々、得体の知れない恐怖を抱いていた。
親が婚約を決めたというのもあるが、ユリウスがイリアスを気に入らなかった理由として、そのことがとても大きかった。
その点、頭の軽そうなマリアンヌなら、結婚後も都合よく扱える。ユリウスはそう信じて疑わなかった。
「……では僕たちは失礼するよ。イリアスはパーティーを楽しんでくれ。一人でね」
「ごきげんよう、イリアス様」
「おやすみ、赤毛の極悪令嬢」
ユリウスの嫌味な物言いに合わせ、取り巻きたちも調子づき、下品な声を浴びせる。
だが、イリアスは動じない。
カーテシーを維持したまま、静かに告げる。
「……お待ちください」
「もう話は済んだと思うが」
「先ほど、私がマリアンヌに仕事を押し付けていたと仰いましたが── 私をマリアンヌの指導員に任命したのは、自治会会長のユリウス様です。私の指導に問題があったなら、他ならぬユリウス様の任命責任になりませんか?」
「婚約者として君を信頼していたからだ。それなのに、健気なマリーに酷いことを」
「では、私がマリアンヌに害を加えた証拠はありますか? 先ほど証言された方々は自治会メンバーではありません。 いつ、どこでの出来事か、お教え願えますか?」
「…………」
先ほどまで威勢の良かった取り巻きたちは、互いに目配せした後、途端に口を閉ざした。
だが一人だけ、巨漢で粗暴な伯爵子息カイ・ロシュフォールが大声で張り上げた。
「俺は見たぞ! 先週、虎月十三日の夕刻。イリアス嬢が資料室でマリアンヌの頬を叩いているのを!」
「……それは間違いないですか?」
「あぁ、貴族の誇りにかけて嘘などつかない」
「おかしいですね……その日、マリアンヌは生家の事情で学院を休んでいたはずです。そうよね、ニーナ?」
「……はい、イリアス様。当日の自治会活動記録にも残っています。あ、申し遅れました。マリアンヌ様と一緒に、自治会庶務を担当しております。ニーナ・バスティアです」
少し離れた場所で事態の推移を見守っていた、くすんだオレンジ髪で黒眼鏡をかけた少女は、戸惑いながらそう答えた。
「ありがとう、ニーナ」
「ちっ……」
証言が覆されたカイは、ニーナを血走った目で睨みつける。
イリアスはすぐにニーナのそばに移動すると、「大丈夫よ」と優しく囁き、彼女の手を握りしめた。
「あの……イリアス様……少しだけ、よろしいでしょうか?」
「えぇ、もちろんよ」
「マリアンヌ様は、普段から私に仕事を押し付けて、ご自身ではほとんど手をつけていませんでした。提出書類の筆跡鑑定や記録からも確認できると思います」
ニーナは、いつも黙って庶務をこなしていた。誰にも頼られず、誰にも褒められず、それでも記録だけは正確に残していた。恐怖でその声は震えていたが、彼女の言葉が、場の空気を変えた。 そして、イリアスに名前で呼ばれ、手を握られたとき──彼女は初めて、立ち上がった。
「マリアンヌ、反論できて?」
「そ、それは……ニーナが適当なことを言っているだけです。あっ……そう言えば。ニーナが一人でやると言ったから、私は譲っていました」
「あなたの発言を証明するものは?」
「……あ、ありませんが、貴族である私の証言は、平民のニーナより信頼に値します」
「当学院では、身分に関係なく平等である。学院則第一条の条文です。お忘れになって?」
「えっ? も、もちろん知ってます……ですが、私は……その」
ニーナの証言に反論を試みるも、マリアンヌの言葉は続かず、口籠ってしまう。
救いを求めるように愛しのユリウスに視線を向けるが、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべたまま何も出てこない。
「……ユリウス様たちの言ってたこと、おかしくないか?」
「マリアンヌ嬢もしどろもどろになっていたぞ」
「正しいのはイリアス嬢では?」
「俺は最初からイリアス嬢が信じていたよ」
「……私もです」
一度はユリウスに完全に傾いたように見えた場の空気は、一気に反転した。
先ほどまで二人を称えていた周囲は、今ではすっかり、ユリウスとマリアンヌを疑っている。
「ではユリウス様は、何の非もないイリアス様を捨てて、マリアンヌ嬢を?」
「マリアンヌ嬢も最初からユリウス様を篭絡するつもりで近づいたのでは?」
「そう言えば、マリアンヌ嬢の家、あのルクレール家だろ? 悪どい商売で有名なシカッド商会を経営してる」
「あぁ、成り上がりのシカッド。金のためなら手段を選ばないって有名だな」
場の雰囲気に、ついに耐えられなくなったのか、ユリウスの顔には汗が滲み、口をパクパクさせていた。
何か反論しようにも、これと言って材料がない。取り巻きたちは意気消沈し、隙あらば、逃げだそうとしている。マリアンヌも口を開けば失言を繰り返すばかりで、あてにならない。ユリウスはこの場を切り抜ける方法を探すが、見当たらない。
(なぜだ? 僕は何も悪くないのに)
(すべては、高圧的でかわいげのないイリアスと、考えなしのマリーが悪い)
(――そうだ。すべてマリーのせいにすれば……)
「愛しいイリアス。あぁ、僕だけのイリアス。どうか落ち着いて聞いてくれ。僕はマリーに、この悪女に騙されていたんだ。確かに君を疑った僕は罪深い。だが、許してほしい。僕に必要なのはイリアス、君だということに気づいたよ、この汚らわしい女ではない」
ユリウスはマリアンヌを強引に振りほどき遠ざけると、まるで大衆劇のような身振りで、甘い言葉を並べた。
「ユリウス様!? 何をおっしゃって? 先ほど、私を生涯守り抜くって……」
「うるさい。たかが子爵の、下級貴族の分際が。いずれ侯爵家の跡取りになる僕と婚約できるわけないだろ。身の程を知れ!」
「そんなぁ……あんまりです、ユリウス様……」
マリアンヌはそのまま地面にへたり込み、わなわなと震えていた。
「さぁ、イリアス。もう一度やり直そう。僕ら二人が手を取れば、何でもできる」
銀色の貴公子然とした姿で手を伸ばし、そう告げる。その瞳は、イリアスが再び手を取ることを疑っていなかった。
……しかし
「……お断りします」
イリアスは声を荒げることなく、淡々と告げた。
銀刺繍の礼服に身を包んだユリウスは、まるでこの場の空気を自分のものと信じて疑わないようだった。 だが、イリアスの言葉が響いた瞬間──その礼服は、空気に馴染まず、ただの布切れに見えた。
「な、なぜだイリアス? 僕らの婚約は、アーデルハイド家とクローディア家の双方合意の上で決めたこと。簡単に覆せるはずもない」
「ユリウス様は、父宛に婚約破棄の書状を送ったのでしょう。もう、手遅れです」
「それは君が口添えしてくれれば、何とかなるはず!」
「……いたしません。第一に、ユリウス様は婚約破棄の際に二言はないと仰いました。 第二に、マリアンヌを生涯守ると誓われました。私はその言葉に、とても感動しました。お二人を応援しておりますので、最後まで貫いてください。それでは」
イリアスは深紅のドレスの裾を両手で摘み、膝を軽く折って優雅に礼をする。
「行きましょうニーナ」
「はい、イリアス様」
「ま、待ってくれ! イリアス!」
ユリウスの必死の言葉が届いたのか、イリアスは歩みを止めた。
そして──振り返ることなく、告げる。
「……一つ、言い忘れておりました。私たちの婚約条件として、クローディア家は領地で採れる石炭を安価で提供し、木炭ではなく石炭を用いた製鉄の精錬技術もアーデルハイド家に供与する契約となっておりましたが──こちらは白紙撤回とさせていただきます。どうぞ、お父様によろしくお伝えください」
「ちょっと待ってくれ! 僕はそんなこと、一切聞いてないぞ!」
「申し訳ございません。ユリウス様はご存じだと思っていました」
ユリウスは膝から崩れ落ちた。
噴水の水音が再び響き始め、空気はイリアスのものとなっていた。
もはや、婚約破棄だけの問題ではない。ユリウスの軽はずみな言動は、アーデルハイド家の利益を大きく損なう結果となった。
これまでユリウスに甘かった彼の父も、今回は許さないだろう。そう思うと、震えが止まらなかった。
取り巻きたちは、いつの間にか、この場を抜け出し、一連の騒動を見守っていた人々も、姿を消していた。
王立学院庭園噴水前には、ユリウスとマリアンヌだけが残された──。
空に浮かぶ蒼い月は二人を照らし、まるで犯した罪を夜の闇に葬ることを拒んでいるようだった。
今回のことがきっかけで、これまでの悪事が次々と露見したユリウス・アーデルハイドとマリアンヌ・ルクレールは王立学院を退学処分となった。
ユリウスはアーデルハイド家から半ば勘当され、危険が伴う国境警備隊に強制配属。マリアンヌは更生の名目で修道院に送られた。 生家のルクレール家は、轟いた悪名が沈むのを静かに待っていた。
その後、アーデルハイド家からは騒動のお詫びと賠償金の支払いを引き換えに、石炭の提供と精錬技術の履行を求められたが、クローディア家が応じることはなかった。
――そして、婚約破棄騒動から一ヶ月後。
イリアスは、生徒自治会の執務室で自分の身に起きたことを振り返っていた。
マリアンヌ・ルクレールが、悪名高いシカッド商会の令嬢であることは以前から知っていた。警戒はしていたが、マリアンヌは表面上はうまく誤魔化していた。
親が何をしようと、子は別──学院内での素行に問題がなければ、見逃すつもりだった。
しかし、マリアンヌはイリアスの目の届かないところで巧みに悪事を働いており、結果としてニーナに辛い思いをさせてしまった。
ユリウスと気が合わないことは、婚約した時からわかっていた。
しかし、貴族同士の婚姻は、私情など関係ない。イリアスは、どうあろうとユリウスに尽くし、時には無茶をしないように止めるつもりだったが、結果として叶わなかった。
「……うまくいかないことばかりね。でも、悪いことばかりでもないわ」
書類に目を通しながら、イリアスはそうつぶやいた。
――その時、ギイィという軋む音を立てて古びた木製の扉が開き、ニーナが執務室に入ってきた。
「イリアス様、休憩にしましょう」
「えぇ」
執務室の中央には、黒檀の重厚な長方形のテーブル。表面には爵位契約の書類と、まだ湯気の立つ紅茶が並んでいた。
「……良い香りね」
「ありがとうございますイリアス様、この香りを出すには、ちょっとしたコツがありまして……ってすみません!」
「ニーナ、これからはイリアって呼んで。かしこまらなくていいの。もっと、普通に話してほしい」
「ですが……」
「……あと、本当は、私、おしゃべりなの。お母様に“淑女は黙っている方が得をする”って言われてから、ずっと静かにしてたけど──もう、いいかなって」
「だからニーナ、お願い」
「わかりました。それでは……イリア」
「ありがとう、それから──」
「まだ何かあるんですか?」
「今度、美味しい紅茶の入れ方を教えて」
「……はい、喜んで」
「よろしくお願いするわ、先生」
伝統ある王立学院生徒自治会執務室に、少女たちの鮮やかな笑顔が彩る。
イリアスは自治会会長として新たに任命され、ニーナはその右腕として執務を支えた。 二人は王立学院の制度再編と平等の理念維持に尽力し、静かに空気を整えていった。
お越しいただき誠にありがとうございます。
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一言でも「ここ好き」などあれば、ぜひ教えてください。
※イリアスの瞳は、新緑のようなエメラルド色です。一部誤記がございましたので、修正いたしました。