「無言の継承」
イハラの死は公表されていない。イハラの関係者には突然失踪したとだけ報告されていた。
木々に囲まれた小高い丘の上。TNT本部から少し離れた、立ち入り制限区域。ここにはかつてTNTの任務に従事し、あるいは途中で排除されたメンバーのための無名墓地が存在する。名もなく、記録にも残らず、ただ数字で識別される墓標が並ぶその場所は、木々の間にひっそりと設けられていた。
墓標の列の中に、南雲誠四郎の番号もあった。かつて隼斗たちと共に排除に関わった八真人は、ほんの一瞬だけ視線をそちらへ送り、すぐに前を向いた。
風が吹き抜けるなか、八真人は静かに一つの墓の前に立っていた。その石には、「K-12」の文字が刻まれている。
「イハラさん。俺が殺したあなたを消すつもりは、ありません。俺の中で、生きてください」
その言葉は、かすかに震えていた。でも、それは迷いではなかった。祈りのような、確かな決意だった。
(この人の『すまない』と、政悟の『ありがとう』――それぞれの最期が『後悔の幕引き』と『感謝の旅立ち』だった。けれど……本当は、二人、似ていたのかもしれない)
八真人は目を閉じ、しばらく風の音に耳を傾けた。
「誰にも覚えられない場所に、こうして残るなんて……皮肉ですね。でも俺は、忘れない。消さない。それが唯一、俺にできることです……今は、それしか……」
一度だけ深く頭を下げ、八真人は墓に背を向けた。その歩みはまるで、何かを抱えながら、前へ進もうとする者の姿だった。
――――――――――――――――――
風がビルの隙間を吹き抜ける。誰もいない屋上で、隼斗は柵に背を預けていた。薄暗い空に星が瞬き始める頃、シンイチが無言で隣に立つ。
「一人暮らし、どうだ?」
シンイチが聞いた。隼斗は、アパートを借りて一人暮らしを始めていた。
「まぁ、それなりにな。ここに呼び出したのは、イハラの件を話しておこうと思って。あいつに何があったのか、お前には、聞く権利がある」
隼斗の声は、いつもより低く、かすれていた。
「俺を殺そうとした研究員は、イハラの知り合いだった。なんでも昔殺された彼女の弟だったらしい。たとえ知り合いだろうと、上からの命令は絶対だからな。肩入れするべきじゃなかった。まぁ、それほど大事な人間だったんだろうけど」
隼斗は一拍置き、吐き捨てるように続けた。
「……でも、あいつは俺を殺そうとした。そこまでして守りたかったのか……俺が死んでもいいと思ってたのか、それとも、俺を恨んでいたのか」
シンイチは黙って目を伏せる。冷たい風が頬を撫でた。シンイチの顔をちらりと見て、隼斗は続ける。
「それにあいつは、班を抜けて新しい組織を作ろうとしていた。政悟はそこに呼び出された。そして……イハラと新しく作ろうとした組織のやつらに……」
それ以上、隼斗は続けられなかった。
「そうか……」
シンイチは夜景の中へ視線を落とした。
「あと、お前の伝言、伝えられなかった。悪い……」
「……いや、いいんだ。気にするな」
風が吹く夜の屋上。隼斗が内ポケットから、小さく折れた茶色い封筒を取り出した。
「これをお前に渡しておく」
「……?」
「処理班が回収してた。八真人が、お前に渡すべきものだって」
封筒を受け取ったシンイチは、ふと眉をひそめた。
「どうして八真人が?」
「八真人は……本部側の人間だ。中枢に近い立場で、処分記録や人員データの管理にも関わってる。これは、八真人が意図的に、あいつの判断で、お前に託した。回収したUSBには、イハラがやろうとしていた構想も入っていた。その中で、これはおまえに宛てたものだ。死ぬ前に、イハラが何を想ってたのかがここにある」
シンイチは無言でそれを見つめた。紙の感触が、重かった。封筒の中には手紙と数枚の書類が入っていた。
SBI-3427(免疫調節剤)第Ⅲ相臨床試験
治験登録番号:NCT014919740204XO 実施機関:MIRAIセンター
治験番号、特定の病名。
難解な英語が並ぶ中、日本語で「適応年齢」「病院名」「症例基準 未分化型免疫異常」の記述も記載されていた。書類の最後にはこう記されていた。
「お前なら、どこまでもあがくだろう。俺もやっとこれを見つけた。限界なんて、あってたまるか。医療の進歩をなめるな。利一は必ず治る。この書類を持ってメモに書かれた医者を訪ねろ。そして俺は、
最後まで目を走らせたシンイチは、眉をひそめた。文末が不自然に途切れ、余白だけが広がっていたのだ。
「……ここで、終わりか?」
低く問う声に、隼斗が静かに答える。
「最初は俺もそう思った。けど、八真人が……この余白の違和感に気づいた」
「八真人が?」
シンイチが顔を上げる。
「空白の部分。実際には、データとして数字の羅列が残されてた。0と1だけの、意味不明な並びだ」
隼斗は少し言いよどんでから、ぽつりと続けた。
「……八真人の説明をそのまま伝えるとな、この空白はただのスペースじゃなくて、ゼロ幅文字と言って、表示されない特殊なコードがあるらしい。人間の目には見えないが、データとしては残っていて、解析すれば言葉になるんだと」
隼斗の声は抑えられていた。淡々としているのに、その奥に沈んだ熱が感じ取れる。
「そして八真人は、それを解析した」
隼斗はもう一枚を差し出した。そこには確かに、ただの数字の羅列が並んでいる。
11100100 10111111 10100001
11100011 10000001 10011000
11100011 10000001 10100110
11100011 10000010 10001011
11100011 10000000 10000001
11100011 10000010 10110111
11100011 10000011 10110011
11100011 10000010 10100100
11100011 10000011 10000001
11100011 10000010 10010010
「……暗号か?」
「これはバイナリ――0と1だけで文字を表現したデータだそうだ。UTF-8の形式で変換すると、日本語の文章として読める。要は、文字を番号にして、それをビット列にしたものだとか。俺にはさっぱりだが――八真人がそう言ってた。そしてここに書かれた最後のイハラの言葉は……」
隼斗は一拍置き、視線を落としたまま、静かに告げる。
「信じてる、シンイチを」
シンイチは息を呑み、手紙を握りしめた。
謝罪ではない。懺悔でもない。ただ最後に残された、確かな信頼。
「……ふざけんなよ」
シンイチのかすれた声が漏れる。
「お前が……信じてたのは、俺だったのかよ」
シンイチは小さく呟き、唇を噛みしめた。怒りとも、悲しみともつかない感情が喉まで込み上げた。
隼斗は何も言わなかった。ただ、遠く夜景を見ていた。その背中から、抑えきれない思いが、微かに伝わってくる。
シンイチは封筒をゆっくり胸ポケットにしまった。ふと空を見上げて静かに笑う。皮肉のような、祈りのような、諦めにも似た笑みだった。
「お前が最後まで医者だったこと、俺が覚えててやる。だから言っただろ。お前は優しすぎるんだよ……イハラ」
夜風が、手紙の余韻を優しく撫でる。シンイチは、風を背に受けながら、その名前を呟いた。
※ちなみにシンイチはシリーズの前作「群青と茜色の空」ep35に出ています。あと4話で完結します。




