「惜別の空」
『昨夜、木造二階建ての家屋が火災により全焼しました。家の中には保内政悟さん(18歳、高校3年生)が一人でいた模様ですが、現在もまだ連絡がついていません。また焼け跡から一人の遺体が発見され、警察と消防ではこの遺体が政悟さんとみて確認を急いでいます。なお、この家には政悟さんの兄二人も住んでいましたが、火災当時は仕事で留守にしており無事でした……』
黙ってテレビを見ていた八真人はリモコンを持ちテレビ画面を消した。
火災現場となった家屋の前に、八真人は一人、立っていた。現場検証も終わり、規制線も解除されている。司法解剖は行われなかった。正確には、「行われないように手配された」。
周囲には誰もいないが、焦げた匂いがまだわずかに残っている。足元には、真新しい花が一輪、置かれていた。
「お前の最後の任務……俺はまだ納得してない」
そう呟いてから、彼は目を伏せた。
「政悟、お前には誰かを守れる強さが……確かにあった。俺は、それに救われた」
目を閉じると、政悟の顔が浮かんで消える。
「なんで、俺より先に逝くんだ……」
その言葉は、堪えきれず漏れた呻きのようだった。八真人は強く唇を噛みしめた。声にならない嗚咽を、奥歯で押し殺すようにして。
――――――――――――――――――
雨上がりの午後、空は鈍い灰色に沈み込んでいた。斎場の外には香の香りが淡く漂い、人々のすすり泣く声が静かに響いていた。政悟の遺影は、少し照れたような笑顔を浮かべている。それが、胸に痛かった。
シンイチは、喪服のポケットに手を突っ込んだまま、ぽつりと呟いた。
「政悟、本当にモテてたんだな。葬式に来てた女の子たち、号泣してたよ」
その声音に茶化しはなかった。ただ、寂しげな感慨が混じっていた。
その横で、隼斗がゆっくりと頷く。
「……あいつ、友達ができたって言ってた」
シンイチはちらりと周囲を見回した。
「八真人、来なかったな」
隼斗は目を閉じてから、短く答える。
「八真人は先に別れを告げたからな。今さら来る必要もなかったんだろ」
斎場の一角、椅子に腰かけた和大は、誰とも目を合わせず、無言のままうつむいていた。葬儀の最中、何度もハンカチを握りしめていた手は、今はただ膝の上で力なく震えていた。
あまりに静かな喪主だった。強い父親であろうとし続けた男の、今のその姿が、むしろ声にならない叫びのように見えた。
少し離れた場所、弔問客がひとり、またひとりと帰っていく。そのたびに、空席が増えていった。だが、祭壇の前に座っていた政悟の同級生たちは、誰ひとり席を立とうとしなかった。
「こんなに慕われてたんだ」
シンイチが、ぽつりと零した。隼斗は何も言わなかった。
葬儀の帰り道、シンイチはひとり歩いていた。街灯の光が足元に影をつくる。ふと、自販機の前で、手を止めた。目に入ったのは、政悟が選ばなかった新発売だと言っていたジュース。
あの夜──
『僕が大人になったら、もっと頼ってもらえるかな』
『いや、その前にお前に頼られる側になれるよう頑張るわ』
静かに、胸の奥に焼きついている声が、蘇る。答えは、もう永遠に返ってこない。でも、自分だけは、忘れてはいけないと思った。
『ちゃんとした別れって、できるときと、できないときがありますよね』
政悟の声が頭の中をループする。
「ちゃんとした別れ、できなかったな。俺は……お前の代わりになんて、なれないけどさ」
シンイチはつぶやく。
「せめて、ちゃんと背負って生きるよ。お前が見たかった未来を……って、やっぱまずそうじゃん。ライムソーダ味ってなんだよ……」
シンイチはジュースを買うこともなく歩き出した。
手の中には、ぽつりと握りしめた小銭だけが残されていた。
――――――
「班は解散する。弟や仲間も救えない人間に、任務なんてできない。俺には班長の資格なんてないよ」
和大はそう言って、警察官の職を辞していた。
正義という名の下で数え切れない任務を遂行してきたが、結局、最も守りたかったものを守れなかった。その重さは制服を脱いでも消えず、日々胸の奥に居座り続けた。それからというもの、和大は毎日のように政悟と両親が眠る墓に通った。
朝でも夜でも、天気が崩れていても足を運び、墓前に水を供え、風にさらされた花を整える。
そのうちに、墓地を管理する寺の住職と顔を合わせるようになった。
「また来てくれたんですね。助かりますよ」
手桶の水が凍る朝、住職はそう言って微笑んだ。和大は、寺の手伝いをするのが日課になっていた。掃除、法事の準備、香の焚き方、供物の並べ方。最初はただ手持ち無沙汰を紛らわすためだったが、いつしかそれが、誰かのためにできる数少ない「仕事」になっていった。
「もし……もしご迷惑でなければ、今後もお手伝いさせていただけませんか」
そう願い出たとき、住職は少しだけ目を細めた。
「この寺もね、人手が足りなくて困っているんです。正直、後を継いでくれる人がいればと思っていたところでして……」
「後を、継ぐ……?」
「あなたのように、静かに誰かを想い続けられる人にこそ、仏の道は向いているのかもしれませんよ」
和大は言葉を失った。
正義や力では救えなかったものを、祈りや静けさの中でようやく見つめ直すことができるのなら――。
彼はその日から、仏道への道を歩き始めた。
住職の紹介により、和大は宗派の本山で開かれる「得度講習」に参加することとなった。
それは数日間にわたる、仏教の基礎、経典、作法、読経を学ぶ場であり、形式としては僧侶として生まれ変わるための通過儀礼でもあった。袈裟を身にまとった和大は、本尊の前に正座していた。頭を剃り、俗世のしがらみを断ち切るように――それは過去の自分との訣別でもあった。本山から寺へ戻った和大は、かつてとはまるで違う時の流れの中に身を置いていた。
朝は鐘を撞き、庭を掃き、本堂の香を焚く。墓の前には、毎日立っている。ただ静かに合掌し、風の音を聞く。
そんなある日、ふらりと寺を訪れたのは、隼斗だった。
黒いシャツの袖を無造作にまくり上げ、いつものようにぶっきらぼうな声で言う。
「……元気そうじゃねぇか。坊さんやってんの、まだ違和感あるけどな」
和大は少し笑った。
「最初は俺もそう思ってた。でも、不思議と馴染むもんだな」
ふたりで並んで墓を参る。何も言わずに合掌する時間が、かつての会話より深くつながっている気がした。
「……政悟が俺たちの仲間になりたいと言った時、止めるべきだったのかもしれない」
和大はぽつりと呟いた。その声には、悔いと祈りとがないまぜになっていた。
隼斗は一瞬黙ったのち、少しだけきつい口調で言った。
「それは……言うべきじゃないよ、和兄」
「……?」
「あいつは、和兄の傍にいたいって、自分の意志でTNTに入ったんだ。止めることも、違う選択肢もあっただろうけど……最終的に決めたのは政悟だ。和兄がそれを否定したら、あいつがここまでやってきたこと、その全部が否定される」
「……」
「結果がどうだったとしても、あいつの意志でここまで来たってことだけは、否定しちゃいけない。あいつ、ちゃんと自分で歩いてたじゃないか」
和大は目を伏せ、拳をゆっくりと握った。何も返せなかった。だがその沈黙は、苦しさをかみしめた上での、少しだけ救いを含んだ沈黙だった。
彼は静かに空を見上げた。
雲は淡くたなびき、茜と群青が溶け合うように混じり合っていた。
どんなに季節が巡っても、同じ空の色は一つとしてない。それでも――空は、空のままで、そこに在り続ける。
変わり続けるものの中に、変わらないものがある。
そう気づいたとき、和大の胸の奥に、かすかな温もりが宿った。
「政悟……お前が見ている空も、きっと、同じ色だろうか」
風が頬を撫でた。
答えはない。けれど、胸を張って生きていくことなら、できる気がした。




