「影の記憶」
翌日――
室内には朝日が差し込み、古びた床板を橙色に染めていた。
居間代わりの6畳間。
電気ポットの湯が、カタカタと不規則な音を立てている。
和大は湯飲みにスティックタイプのインスタント緑茶を入れ、湯が沸くのを待ちながら、ちらりと背後を振り返った。
「やっぱり政悟を突入役に使うのは危険だと思うんだが」
和大が低く、しかし明確に言う。隼斗は黙って腕を組んで座っていた。
「でも事実として、敵は、相手が子供だと思って油断したんです。もしも、隼斗と二人で踏み込んだら怪しまれていたでしょうね」
政悟はあくまで静かに答えた。その言葉に熱はないが、確信だけが宿っていた。
そのとき、靴音が二つ聞こえた。シンイチが、鍵を開けて家の中に入ってくる。
「お待たせ……って……なに? 空気重くない?」
シンイチは軽口を叩きながら靴を脱いだ。続いて無言のままイハラが入ってきた。
「反省会か?」
シンイチが腰を下ろしながら尋ねる。イハラは政悟に視線を向けた。
「成功した以上、誰を責めることもできない。だが——政悟は本気でこれからも先陣をやるつもりか?」
「はい」
政悟は即答した。
沈黙が落ちる。和大が沈黙を和らげるようにシンイチとイハラの間に湯飲みを置いた。
隼斗がため息をつく。
「止めても無駄か……」
イハラの呟きに
「止めたいけどな。ほんとは」
和大の声には、苦さがにじんでいた。
「班長がそこまで言うの、珍しいな」
シンイチが茶を一口すすりながら言った。
「てっきり『やらせてみる』ってタイプかと」
和大はふっと笑った。
「こいつはまだ未成年だ。そう簡単に背中は押せないよ」
政悟は一瞬だけ視線を返した。
彼の目には、まだ誰も知らない未来が映っている――そんな予感だけが、重く静かにその場を支配していた。
和大の弟で政悟の兄―――隼斗の父親は警察の拳銃射撃大会で優勝するほどの腕前を持っていた。彼は、日々の勤務に加えて射撃訓練や後輩の指導にも力を入れており、真面目で実直な人だった。
しかし、末弟・政悟が5歳のとき、父は職務中に殉職する。強盗事件の逃走犯を追う緊急配備中のことだった。
当時、和大は16歳、隼斗は12歳。突然の別れは、幼い三兄弟に大きな影を落とした。
父を殺害した犯人は19歳の青年だった。
強盗目的で民家に押し入り、老夫婦に暴行を加えて金品を奪い、逃走していたところを父に発見された。
当時、未成年として扱われた彼は、後の公判で父に対してこう語っている。
男を見つけた父は、すぐに手錠をかけることなく、静かにこう声をかけたという。
「若いきみが、こんな残酷なことをしなければならなかった理由があるのなら、聞かせてくれないか。きみを逮捕するのは、それからだ」
その言葉に、男は生い立ちを語り始めた。今まで信頼できる大人に出会えず、虐待され、孤独の中で育ったこと。誰も信じられず、友人もいなかったこと。お金がなければこの先、生きていけないこと――。
だが一方で、彼はずっと、逃げ出すチャンスを狙っていた。
きちんと自分の話を聞いてくれる人間に会ったのは、目の前の他人が初めてだった。だが、今更話を聞いてもらったって、遅い。ここで捕まるわけにはいかない。殺すしかない――。彼の中では、すでに結論が出ていた。
男は一瞬の隙を突き、隠し持っていたナイフで父の首を刺した。父は何かを言おうとしたが、彼の耳には届かない。男は狂ったように何度も刃を振るい、父はその場で息絶えた。
その後犯人は逮捕されたが、父が戻ることはなかった。
父がすぐに手錠をかけなかったこと、すでに凶悪犯罪を犯していた犯人に対して拳銃を使わなかったこと――それらは「判断ミス」として非難の的となった。
「射撃の大会で優勝した意味は何だったのか」「急所を外してでも撃てば助かったのではないか」「感情を持ち込まず、粛々と職務を遂行するべきだった」
亡くなったあとも、父はメディアや世間から厳しい批判を浴び続けた。
さらに、犯人が「恵まれない家庭環境で育った」という事実が明かされると、今度は同情の声も巻き起こった。ワイドショーでは連日、「彼のような人間を生んだ社会が悪い」と論じる者、「同じような境遇でも真面目に生きている人間はたくさんいる、犯人が悪い」と糾弾する者、「警察の対応が甘かった」「二次被害が出ていたらどう責任を取ったのか」と語る者――さまざまな意見が飛び交い、議論は過熱した。
矛先の定まらない怒りと憤り、そして哀しみ。事件は、ただのひとつの死では終わらなかった。
何より、それは隼斗たち三兄弟の心に、決して癒えることのない傷を刻みつけた。




