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「対峙の時」

 イハラが指定したのは、海沿いにひっそりと佇む古い旅館だった。

 

 案内看板の文字が消えかけたその場所を、政悟はスマホの地図を頼りに、バスと徒歩でたどり着いた。

 かつては名の知れた温泉旅館だったらしい。しかし、時代の流れに取り残され、数年前に静かに廃業した。今では、窓ガラスはひび割れ、玄関の看板も風雨にさらされ文字の輪郭さえ曖昧だ。木造三階建て。傾いた屋根、片方が外れかけた引き戸。そして、玄関の脇に立つ、かすれた「ようこそ」の木製看板。

 その旅館を正面から見た瞬間、政悟の足がふと止まった。

 

(あれ? ここ……知ってる。この感じ……前にも、どこかで……)

 

 はっきりとした記憶ではない。けれど、この建物の形。玄関の佇まい。確か、アルバムで見た。幼いころ、家族で一度だけ泊まった場所。その写真と、同じ構図だった。

 自分では覚えていない。両親と、隼斗と、和大と――全員が揃っていた、そんな写真を見たのだ。記憶の断片をなぞるように、政悟は目を細めた。

 ――まさか、ここだったなんて。

 

だが今、この旅館は静まり返り、木造の壁は風に軋みを立てていた。かつての賑わいも、笑い声も、すべては過去のもの。

 ここにはいったい何があるのか。建物の内部構造もわからず、持ち出された武器の位置すら不明。政悟にとって、状況は圧倒的に不利だった。それでも足を踏み入れたのは、答えを知るためだ。

 イハラはなぜ、自分を呼んだのか。彼は何をしようとしているのか。懐に収めたナイフを確認して、政悟は深く息を吸い込んだ。


 旅館の扉に手をかけたそのとき――

 「政悟、こっちだ」

 どこか懐かしさを含んだ声が、建物の奥から静かに響いた。


  ――ああ、やっぱりここだ。

 政悟は周囲を見回しながら、あいまいな記憶と現実が重なっていく感覚に意識を取られた。丸い柱。壁の模様。廊下の曲がり角。

 『おかあさん、あっちに行っていい?』

 小学生の隼斗の声が、聞こえた気がして、政悟は思わず目を閉じた。


 「政悟、ここだよ」

 再び、奥からイハラの声が響いた。先ほどよりも近い。

 政悟は感情を押し殺すように目を開け、ゆっくりと足を進めた。

 廊下の先には客室が並んでいる。どこかに誰かが潜んでいる気配がする。けれど、音はない。動きもない。政悟は手を壁に添えながら歩く。


 そして――――――彼が現れた。


「どうして、嘘をついたんですか?」

 政悟の声は、静かで揺るがなかった。

「どうして、隼斗を殺そうとしたんですか?」


 イハラは肩をすくめて、わずかに笑った。

「俺はもう信用されてないんだよ。前にも言っただろ? 班長は二人もいらないって」

 そして、言葉を継ぐ。

「今の班に、俺の居場所はない。そう思わないか? 隼斗のやり方にも、もう、うんざりなんだ」


 政悟は視線を逸らさず、まっすぐに見据えた。

「嫌なんじゃなくて、怖いんでしょう。理屈や計算をすっ飛ばして動く隼斗が、イハラさんを無力に見せるから」


 イハラの目が細くなった。表情の奥に何かが揺れる。


「でも僕は、イハラさんのやり方が好きでした」

 政悟は間を置いて、言葉を重ねる。

「調査も準備も、ちゃんとしてて。だからこそ信頼できた。誰かの命を預かるなら、そういう人が必要だと思ってたんです」


 イハラは薄く笑みを浮かべ、首を振った。

「……もう遅いよ。俺はTNTを捨てる。新しい組織を作るつもりだ。いや――もう動き出している。信じられる仲間も集まった」


 政悟の眉がわずかに動いた。

「新しい……組織?」


「そうだ。腐った命令に従わされるのはもうごめんだ。俺たちは、俺たちの正しいやり方で戦う」

 イハラの瞳に熱がこもる。

「対象者の未来なんて誰にも分からない。罪を犯すかもしれないって憶測だけで、人を殺していいわけがない。俺たちは、それを当たり前のようにやってる。もう、嫌なんだよ」


「和兄さんにも、失望したんですか? 班を結成した時から、一緒にやってきたんでしょう?」


「和大は変わった。あいつは上の意見しか見てない。現場は隼斗の勘任せだ。進歩がないよ、あの班は」


 イハラはぽつりとつぶやく。政悟は少し俯きながら訊いた。


「じゃあイハラさんはどうしてTNTに入ったんですか? 命令で人を殺すことくらい、わかってたんじゃないですか?」


 その問いに、イハラの目が一瞬だけ揺れた。

「じゃあ政悟、お前はどうなんだ。任務で、和大や隼斗を殺せるのか? 対象者が知っている人間だったとしても?」


 政悟は目を伏せず、はっきりと言った。

「できますよ。もし兄たちが罪を犯したのなら。僕たちはそのために存在してるんです」


 イハラは目を細め、苦笑するように言った。

「……罪を犯したら終わりか。この国はそういうところだ。償っても、戻ってきた人間をいつまでも犯罪者扱いする。それじゃあ、更生なんてできるわけがない」


 政悟は、まっすぐに返した。

「でも、更生できない人間もいる。だからこそ、僕たちが動くんです。僕たちは、更生した人まで殺してるわけじゃない」


 少しの沈黙。やがてイハラが、静かに口を開いた。

「政悟、お前も隼斗のこと、正直うっとうしいだろう?」


 政悟の目が細くなる。

「見抜いたつもりですか?」


「兄弟ってのは、無条件で信頼できるものじゃない。世の中には、血より濃い絆だってある」

 イハラはふっと笑って、思い出すように言った。

「覚えてるか? 政悟が中三の時、一緒に勉強しただろう? 俺は、お前の真面目さに感心したんだ。どんな環境でも、食らいついてくるお前には、もっと違う道がある」

そして、少しだけ口調をやわらげた。

「どうだ、一緒にやらないか?」


 政悟は、ゆっくりと首を横に振った。

「遠慮します」

 イハラの眉がわずかに動く。政悟は、静かに言葉を重ねた。

「隼斗は、うっとうしいですよ。でも、大切な兄です」

 その言葉とともに、遠い記憶が脳裏をよぎる。


 幼いころ、誘拐されかけたあの日――泣き叫びながら、飛び込んできた兄の姿。

 あの背中。あの声。あの安心。

 ふっと、政悟はかすかに笑った。

「僕には大切なんです。あんな兄貴でも」


 そして、ふと問いかけた。

「シンイチさんのことは、どうするんですか? 何も知らないんでしょう? シンイチさんとイハラさん、すごくいいコンビなのに」


「あいつはもう、十分巻き込んだ」

イハラの声は低く、どこか遠くを見ていた。

「強いんだ、あいつは。悔しいくらいにな。いつも俺の先を行く。もう、俺なんかいなくてもいい」


 政悟の胸の奥で、言葉が刺さるように痛む。

「そんな……そんなの、勝手すぎます! どうして、勝手に、そうやって決めつけるんですか? 僕はこんなイハラさんなんて、見たくなかった!」


イハラは目を閉じ、拳を握りしめた。彼の胸の奥で何かが硬く収縮する。だが、感情はもう整理がつかず、ただ疲れと諦念だけが残っていた。

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