「別離の誓い」
――イハラがなぜ自分を誘ったのか、八真人はその意図をすぐに察した。
和大たち三兄弟の結束に比べれば、八真人は狙いやすい。シンイチは義理堅い男だ。おそらく、班を抜けようとするイハラを全力で止めるだろう。「和大たちを裏切れない」と言って。
だからこそ、八真人だった。
イハラが「大事な話がある」と接触してきて以来、八真人は表向きには彼の言葉に感銘を受けたように振る舞っていた。しかしその裏で、すべてを隼斗に報告していた。
班を欺き、イハラを欺く。――それだけでは終わらない。
彼には、もうひとつの任務があった。この班を監視し、必要とあらば解体すること。それが、彼に課せられた本来の役目だった。
数日後、八真人はイハラに連絡を入れ、ふたたび会った。そして、短く言った。
「俺も、班を抜けます。でも……イハラさんには、ついていきません」と。
――――――――――――――――――
八真人が指定した近所の神社は、嘘のように静かだった。
小さな石段を上った先にある境内には、人の気配はなく、木々のざわめきだけがかすかに響いている。風に揺れる鈴の音が、どこか遠い場所の記憶を呼び起こす。
朱塗りの鳥居の奥、苔むした石灯籠のそばで、八真人は政悟を待っていた。
「班を抜けることになった」
「……そう」
突然呼び出された政悟は、ただそれだけ答えた。
「何も聞かないんだな」
「聞いたら話してくれるの?」
「お前は、気づいていると思ったから。いつか聞かれると思っていた」
「うん、疑ってはいたよ。でも、ちゃんと知ったのは最近だけどね。霞さんに会ったんだ。偶然に」
「……そうか」
八真人の声が少しだけ低くなった。
政悟はゆっくりと視線を伏せ、かすかにまぶたを閉じる。あの午後の光と風を、もう一度思い出す。
──それは、本当に偶然の再会だった。
駅前のロータリー。陽は傾きかけ、長く伸びた影がアスファルトに淡く揺れていた。
「政悟くん」
名前を呼ばれ、振り返ると、霞がいた。
少し雰囲気が変わった気がしたけれど、その柔らかな笑みはあの頃と変わらない。
「……霞さん」
「突然声をかけてごめんなさいね。姿を見つけたから、つい」
「いえ」
返しながらも、政悟の胸の奥には警戒心がくすぶっていた。
「私ね、反抗期の政悟くんに言っておきたいことがあって」
思わず眉が動く。唐突な前置きに、政悟は少しだけ身構えた。
「あなたのお母さん、精一杯あなたたち三人を守ってきたと思う。きっと、守りたかったはず。あの時は、ひどいこと言ってごめんなさい。あなたたちを見てたら、ちょっと意地悪したくなったのかもしれない」
「あの、僕、反抗期じゃないです。でも、まぁ、母が僕たちを守っていたことは、三人ともちゃんと分かってますから」
「そう……よかった」
一瞬だけ、霞の瞳が細められる。その横顔には、どこか哀しさと安堵が入り混じっていた。
「僕からも、ひとつだけ訊いていいですか?」
「なぁに?」
「隼斗のこと、好きだったんですか?」
唐突な問いに、霞は一瞬だけ目を瞬かせた。けれど、すぐに首を横に振る。
「まさか」
即答だった。
「良かった。隼斗は、なかなか面倒くさいですから」
「それ、隼斗さんも言ってたわよ。あなたのこと――扱いにくくて面倒くさいって」
言い返す言葉が見つからず、政悟は黙った。霞はくすっと笑うと、ふっと視線を空へ泳がせる。
「みんなは、元気かしら? ええと、和大さん、隼斗さん、シンイチさん……それにイハラさん、あと、八真人くん」
彼女はまるで確認作業のように、一人一人の名を呼んだ。
「ええ、まぁ」
少しだけ言葉を濁した。訊かれる筋合いはない──そう思ったが、口に出すほどの怒りでもなかった。
「そういえば、霞さんって、本部の人だったんですよね」
「ええ。正式には本部付のTNTメンバーってところかな」
「そうですか」
「何か私に聞きたいことでもあるの?」
「あの……」
政悟の胸の奥に、言いかけて止まった言葉がひとつあった。けれど、それを口にしなければ、前へ進めない気がして――。
だが、先に口を開いたのは霞だった。
「伊知八真人くん。彼のお父さんはTNTの幹部」
霞は一瞬だけ静止し、やがてゆっくりと頷いた。
「そして彼も。そう……私と同じ。班員の監視に送り込まれた人材」
「……え?」
「聞きたかったんでしょ? 彼のこと。それとも、知らない方がよかった?」
その問いは、まるで試すような響きを含んでいた。
政悟はほんの数秒、言葉を失った。今までの日々が。彼の目が。笑い声が。すべて、違った意味で心に降り積もっていく。
でも、それでも。
「いえ。聞けて良かったです」
「そう。じゃあね。もう会うことも、たぶんないでしょうけど」
「ええ。そうですね」
互いに背を向け、歩き出す。
どちらからも、振り返ることはなかった。
──そして今、再び目の前にいる八真人を、政悟は見つめていた。
言い残したことはないはずなのに、政悟はまだその場を離れようとしなかった。ほんの少しだけ空を見上げ、何かを思い出したようにぽつりと言う。
「そうそう、覚えてる? 僕たちの初任務。京都の要人警護。南禅寺だったよね。六道輪廻の庭があった。六つの世界を、生まれ変わり続ける――仏教の世界観だよ。解脱できなければ、永遠に輪廻するっていう」
八真人は黙って聞いていた。政悟は、少し笑ったような声で続ける。
「僕はさ、たくさん人を殺しちゃったし、来世もきっと散々だと思うんだ。でもイチくんも、同じじゃない? 僕たち、輪廻を抜けられるほどの徳なんて、積んでないよね」
ふっと、風のように。
「だから……来世で出会えたらいいな。本当の意味での仲間として」
その言葉に、八真人は少し息を呑んだ。
「俺は、前世も来世も信じない」
「え?」と政悟が小さく問い返す前に、彼は続ける。
「俺が信じられるのは今だけだ。今、お前がここにいて、俺がいる――そして、今の俺がどうするか――それだけだ」
しばらく沈黙したのち、政悟はゆっくりと口を開いた。
「ばいばい、イチくん。ここでお別れだね」
その声音に、怒りも悲しみもなかった。そこにあったのは、確かな距離と覚悟だけだった。
「僕たちは、憎み合ってるわけじゃない。でも、このまま一緒にいたら、きっと傷つけ合うようになる。お互いに譲れないものがあって、正義も価値観も違う。だから、こうなるのは自然なことだと思うよ」
政悟は笑った。子どもみたいな、けれどもう子どもではない顔で。
「でもね、イチくんに会えて、僕はよかったと思ってる」
そして、少しだけ視線を逸らして。
「イチくんとの任務、意外と悪くなかった。背中を預けられて良かったよ」
政悟は八真人に背を向け歩き出した。石畳を踏む足音が遠ざかっていく。彼は一度も振り返らなかった。夕陽が落ちかけた鳥居の向こうに、その背中はゆっくりと、けれど確実に八真人の視界から消えていった。
その姿が小さくなっていくのを、八真人はただ黙って見送るしかなかった。言葉は喉まで来ていた。けれど吐き出せば、二人の関係はもう戻れなくなる気がした。
実際、八真人にはまだ役目が残されている。任務の途中であることを言い訳にすれば、何も言わずに別れても許される気がした。
(……これで良かったんじゃないか)
そう思った。
このまま、何も伝えず、何も残さず―― ただ「伊知八真人」という存在を、政悟の記憶から静かに消してしまえたら。別れの言葉すら告げず、印象すら残さず、消えてしまえたなら――そのほうが楽だった。
はっきりと別れを告げるよりも、何も言わずに去るほうが、よほど簡単だったのだ。




