「綻びの行方」
数日後、八真人は父に会うためTNTの本部にいた。
「――どうして彼女をあの班に送り込んだんですか? 俺はそれほどまでに信用がなかったと」
低く絞り出すような声で八真人は、目の前の男――父を真っ直ぐに見据える。
「彼女は組織の意図通りに動ける数少ない人間なんだよ。必要なら、班を終わらせることもできる。それができる人間は多くない。単独で動き、上の意図を汲み取れる者だけ――お前にはまだ無理だ」
八真人は口を開きかけ――息を吸い込んだまま、何も言わずに閉じた。
父はいつもの無表情で、書類をひとつ脇に置いた。声には怒りも、迷いもない。あるのは事実を淡々と述べるだけの、機械のような響きだった。
「ガタつき始めた班に、彼女を投入する。壊れてしまえばそれまで、持ちこたえれば様子を見る――それだけのことだ……どんなに人間関係ができあがっていても、崩れる理由はいくらでもある。外部からの圧力や環境の変化で内部バランスが崩れることもあれば、目的は同じでも手段や優先順位が食い違うこともある」
まるで実験の失敗例でも語るように、父は続けた。
「だがな、一番多いのは信頼の崩壊だ。異性や金銭だけじゃない。裏切りや隠し事――そして誇りを踏みにじられたとき。信頼も忠誠も、その瞬間に砂のように崩れる」
「だからと言って……」
拳を握りしめ、八真人は歯を食いしばる。
あの時の隼斗の怒り、イハラの沈黙、政悟の目――すべてが脳裏をよぎる。
父は立ち上がった。窓辺に歩み寄り、背を向けたまま告げる。
「お前はそろそろ監視任務から外れてもらう」
「……はい?」
「大学へ行け。一年遅れだが、推薦は用意してある」
その背中から、淡々と告げられる言葉。
「悔しいのなら、こちら側へ来い。――変えたいのなら、ルールを作るほうへ来い」
八真人は返事ができなかった。
喉が乾いていた。自分でも気づかぬうちに、手が震えている。
「あの班は……どうなるんです」
ぽつりと絞り出す。
父は振り返らずに答えた。
「いずれわかる。もう綻びは出はじめている」
まるで、それを最初から狙っていたとでも言うように。
八真人は廊下に出て足を止めた。喉の奥に熱がこもる。何かを叫びたいのに、言葉が出ない。
(彼らを試した? それだけのこと?)
口元を引き結び、拳を強く握る。
(ふざけるなよ……)
声にならない言葉が、頭の中で響く。誰にぶつければいいのかわからない怒り。自分は今、味方のふりをして壊す側にいる。それを知っていて黙っている。政悟の笑顔が脳裏をよぎる。三人兄弟の絆。イハラとシンイチの優しいまなざし。
(俺は……何のためにここにいる)
「……くそっ」
吐き出した言葉は誰にも聞かれず消えた。八真人の気持ちは晴れなかった。だが、父の言葉には逆らえない。
『大学に行け―――悔しいのならこちら側へ来い。変えたいのなら、ルールを作るほうへ来い』
父の言葉が何度も脳裏でこだまする。
(―――俺はやはり恵まれているのか――)
彼は自問自答し続けていた。
そして―――建物を出てしばらく歩いていると……。
「珍しいところで会ったな」
声がして振り向けば、イハラが立っていた。銀縁の眼鏡の奥で、何も言わずに目を細めている。
「……イハラさん」
「こんなところで何をしてるんだ?」
その声に、八真人の肩が一瞬だけ揺れた。
「いえ、たいした用では……」
そのまま、イハラは周囲を見回して言った。
「ちょうど良かった。八真人に大事な話がある。ついてきてくれ」
イハラの声に、いつもの軽さはなかった。妙に静かで、妙に遠い。八真人は迷いながらも、イハラの後ろを歩いた。
二人が着いたのは、駅から少し離れた住宅街の一角に建つマンションだった。外観は築浅の中層階建て。小さな植栽とインターホン付きのオートロックが設置されている。
イハラは慣れた手つきでカードキーをかざし、エントランスを抜けた。
無言のままエレベーターに乗り込み、目的の階で降りると、落ち着いたトーンのドアの前で立ち止まる。
イハラは小さく「どうぞ」とだけ言い、八真人を中へと招き入れた。 八真人は靴を脱ぎながら、思わず問いかけた。
「ここ、イハラさんの家、ですよね?」
イハラは振り返らず応えた。
「そうだ。あまり人は呼ばないが、たまにはな」
室内は、驚くほど静かだった。広すぎず、狭すぎもしない間取り。白を基調にした内装に、黒とグレーの家具が整然と置かれている。
リビングには小さなソファとローテーブル、壁際に本棚が一つ。掃除が行き届いていて、床には一つの埃も見当たらない。
イハラはそのまま無言でキッチンに向かった。ほどなくしてキッチンからマグカップを二つ持ってきて、そのうちの一つを八真人の前に置く。ローテーブルの前にゆっくりと腰を下ろした。
「甘いやつだ。お前、ブラック苦手だったろ」
「ありがとうございます」
八真人は小さく礼を言って、イハラの前に腰を下ろした。イハラの目が真っ直ぐに彼を見据える。
「本題に入る。単刀直入に言う」
その声が、急に低く静かなものに変わる。八真人は反射的に顔を上げた。
「俺は近いうちに班を抜ける」
「……はい?」
「もう限界だ。あの班は、遅かれ早かれ壊れる。誰かが言い出す前に、俺が動く。それだけだ」
イハラは言葉を選ぶように、しかしその瞳だけは微動だにせず淡々と続けた。
「上に目をつけられたら終わりだ。監視役を送り、スパイを忍ばせ、現場の人間を駒扱いする。あんなやり方では、守れるものも守れない。加えて――指揮系統が曖昧だ。勘と勢いが重んじられ、理論や整合性は後回し。機密は共有されず、信用もされない……少なくとも、俺はな」
彼の語気は強くなかった。ただ、凍るように冷静だった。
「そんな組織に、俺の居場所はない。そうは思わないか?」
「それで、俺に何をしろと?」
「来い。お前も」
その言葉に、空気がかすかに震えた。八真人は言葉を失ったまま、視線を伏せた。
「お前は頭が切れるし、冷静だ。それに、上のやり方に心底染まりきっているわけじゃない。だから声をかけた」
「買いかぶりです。俺は、ただ任務をこなしているだけです」
「違うな。お前は――何かに迷ってる」
イハラはカップを手に取り、少しだけコーヒーをすすった。
「上に仕えて、ルールの枠内で組織を変えられると思うか?」
しばしの沈黙。
「俺は違うと思ってる。だから、次の一手は水面下で動かす」
「TNTという存在自体を変える、ということですか?」
「そうだ」
八真人は、伏せていた目をわずかに動かし、テーブルの上のカップに手を伸ばした。縁に指が触れたが、結局、飲まなかった。
「……考えさせてください」
「いいだろう。ただし――答えを出すのは早いほうがいい。長くは隠し通せない。どちら側に立つか、誰かに決められる前に、自分で選べ」
「わかりました。また、連絡します」
八真人はそう言って、立ち上がった。




