「絆の揺らぎ」
次の任務の発端は、ある企業の研究員からの通報だった。
――特定の団体に属する人物から、人体に害のあるウイルスを研究し、細胞を介して増殖させるよう強要されている。自分の研究がバイオテロに利用されるかもしれない。すべての情報を提供する代わりに、身柄の保護をしてほしい――。
通報の内容はそういうものだった。
本部の人間と面接した研究員は、顔色を失いまるで何かに追われるように言葉を吐き出した。
「まだ安定していないウイルスです。人間の体内でどう暴れるか、誰にもわからないんです」
研究所で進められていたのは、高性能な人工ウイルスだった。感染力を維持しながら、潜伏期間を不自然なほど延ばす構造。既存のワクチンや抗ウイルス薬では、ほとんど歯が立たないという。
彼ら──敵の人間たちは、それをリセットウイルスと呼んでいた。世界の秩序を壊し、新たに作り直すための道具。
研究者はまさか殺人兵器を作らされているとは思わなかったと言った。
「あれは、ただの試作品なんです。暴走寸前の、爆弾のような……」
言葉を詰まらせ、彼は額の汗を拭った。
それでも、敵は実行に移すつもりだった。実地でのデータ収集──そのために選ばれたのが、日本だった。都市人口の密度と、公共インフラの複雑さ、そして政府の対応遅れを想定した最適な検体環境として。
「彼らは、日本で臨床をやる気です。都市で、空気中で、本物の人間を使って。それで、感染経路と拡散効率を試すつもりなんです!」
止めなければならない──それだけは、誰の目にも明らかだった。
それでも、その後に彼自身が敵か味方かの境界線に立たされることになるとは、まだ誰も知らなかった。
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イハラがちゃぶ台に広げたのは、詳細な地図と複数の動線シナリオだった。
彼が事前にまとめた資料には、現場の出入り口の種類、時間帯ごとの人流、想定される非常時の逃走経路、さらに対象人物の行動パターンまで網羅されていた。
その横に添えられたグラフには、最も成功率が高いアプローチが赤線で示されている。
「今回の対象者はただの犯罪者じゃない。全員、優秀な頭脳を持っている。よって、今までとは違う視点で作戦を考えてきた」
「おお、すごいな。イハラは一人でこれを作ったのか?」
和大が感心したように、地図をのぞき込んだ。
「計算によると、このルートが最適だと思う。正面の監視カメラを制御する時間と、警備員の勤務時間が終わった一時間後。このタイミングが唯一の無風地帯」
イハラの指が、地図を移動する。
「ここまで必要か?」
隼斗は肩をすくめ、腕を組んだ。
「いや、イハラの言う理屈はわかるんだけどさ。ぱっと見、わかりづらい。まずこれ全部、頭に入らないし、現場で即判断できる奴なんていねえだろ」
そして、ボールペンを手に持ち―――
「うん――俺の感覚では、こっちから行く方が良いと思うけど」
隼斗はボールペンで別の進入ルートを描き始めた。
「北側の警備員は目視で確認済み。動きも鈍いし、口笛吹きながらサボってた。定時になったら、ろくな引継ぎもせずさっさと帰るよ。その後残るのは、ここの連中だけ。夜なら、誰にも見られずに侵入できる。いくら対象者が優秀だって言っても、非常事態に冷静になれるかは別だろ? こっちから仕掛けたら、取り乱すのに決まってる」
「隼斗。北側の警備員を見たのは昨日の話だろう。任務は一週間後だ。体調不良や不測の事態で巡回パターンが変わればどうするんだ?」
イハラが即座に反論するも、隼斗は聞く耳を持たない。
「そんなの、その場で考えればいいだけ。臨機応変って言葉、あるだろ?」
肩をすくめる隼斗に、イハラの眉がわずかに動いた。
一方、シンイチは腕を組み、壁際に寄りかかっていた。
「難しいよなぁ……どっちも一理ある」
ぽつりと呟くように言う。
「けど、イハラの方が、後のケアも見据えてるよな。逃走経路まであるってのは、ありがたいと思うけど」
「だったら、お前はそっちに回れば?」
「…………」
隼斗の言葉をシンイチは無言で流した。隼斗は自分の感覚で正しいと思うことを言っただけ。けれど、部屋には言いようのない緊張感が流れていた。
和大はそのやりとりを見ていたが、何も言わなかった。沈黙の末、ぽつりと漏らしたのは、意外な一言だった。
「まあまあ。確かにイハラの説明は素晴らしいよ。良くできてる。だけど、これを全部覚えるのはなぁ……。隼斗、こういう勘が利くんだよ。今までもそうだっただろ」
八真人と政悟はずっと沈黙を保っていた。地図を目で追いながら、大人たちのやり取りを聞いている。
イハラは僅かに手を震わせながら資料を裏返した。自分の積み上げた解析の山を、机の端に追いやる。
「そうですね。ご自由に」
低く、静かな声だった。
イハラはゆっくりとファイルを閉じ、鞄にしまう。その仕草には、怒りも苛立ちもなかった。ただ一つ、何かが、音もなく崩れていた。
作戦会議が終わったあとも、政悟はしばらく立ちあがれずにいた。
隼斗は早々に退出し、和大も電話の応対で別室へ向かっていた。居間には、散らばった資料が残っている。
イハラは無言で荷物をまとめていた。
八真人は気配を消すようにして資料を整え、シンイチは壁にもたれたまま、視線だけを政悟とイハラに向けていた。
そして、政悟の視線は、イハラの背中に向いていた。
――言おうか。
「イハラさんの案、僕はすごいと思いました」
「僕だったら、あっちの方が安心できるなって……」
喉まで出かかった言葉。けれど、声にはならなかった。 イハラの表情が見えなかった。いや、見ないようにしていることに、政悟は気づいた。彼は今、何も言われたくないのかもしれない。言葉の一つで、逆に遠ざけてしまうかもしれない。
政悟は机の上に目を落とした。そこに残っていたのは、イハラの印刷した資料の一部。地図の隅に、小さな赤い丸がついていた。
(この赤丸、きっと僕の位置だ。たぶん。いや、違うかもしれない。でも……)
それでも政悟はその一枚を、胸ポケットにそっとしまった。
「……ありがとうございました」
誰に聞かせるでもなく呟いて、政悟は部屋を出て行った。
政悟が部屋を出ていったあと。
「……あいつ、気づいたか」
ぽつりと呟いて、イハラはほんの少しだけ目を細めた。それは、誰にも見せない笑みのようでもあった。




