「孤独の隣」
鉄製のドアがゆっくり開き、イハラが屋上に出てきた。シンイチは手すりにもたれ、遠くの灯りを眺めていた。
「どうだった、あっちの病院の検査結果」
イハラの問いに、シンイチは小さく笑った。
「いつも通りだよ。検査ばかりで、前には進まない。泣き疲れて寝たよ。効かねえ薬を、また打たれて。もう医療の限界ってやつかもな」
「限界なんて、あってたまるか。医療の進歩をなめるな。俺が絶対に治療法を見つけてやる」
いつになくイハラが強い口調で言った。
「そう願いたいね」
「あのさ」
イハラがシンイチの顔を見る。
「ん?」
「仕事、かけもちしてるのか?」
「ああ」
シンイチは静かに頷きながら、視線を空へ向けた。
「そうか……すごいよ、それは」
イハラの声には、静かな敬意がにじんでいた。
「いや。もう、すごいとか言ってられない状況だよ。定期的な検査ばっかりで、気持ちが切れそうになる。相変わらず金はかかるし」
「すべての検査をここの病院で、できなくて申し訳ない」
「いや。入院先だけでも先生のところで良かったよ。先生にはほんと感謝してる。もっと遠方でずっと入院していたら破産してたかもな」
シンイチは自嘲気味に笑った。その笑いに、イハラはたまらなくなった。
言葉を選ぶ間もなく、ぽつりと切り出していた。
「……援助、できるよ」
「……は?」
シンイチが眉をひそめた。
「金のこと。俺、独身だし、あまり使う時間もないし。ほんの少しだけど、子どもの医療費にあててもらえたら」
空気がぴんと張りつめた。シンイチの表情が変わる。笑っていた目が、まっすぐにイハラを射抜いた。
「医者のくせに、ずいぶん変なこと言うんだな」
「別に見返りが欲しいわけじゃない。ただ、もし力になれるならって……」
イハラの言葉にシンイチはかぶりを振った。
「そうやって手を差し伸べる顔をしてた奴に、何度裏切られたか分からない」
「俺がそうだと?」
「そうかどうかは、分からない。でも――」
そこで、ふと目線を落とし、苦笑する。
「もし誰かに助けられて子どもが助かっても、それを借りとして残すくらいなら、このままでいい。俺は子どもを守るために、自分でやってるんだ」
イハラは言葉を返せなかった。
正論でも、感情論でもない。目の前の男が選んできた生き方そのものだった。
沈黙が落ちる。
それでもイハラは、ただうなずいた。
「分かった。すまない。無神経だったな」
「いや、悪いのは俺だ。せっかく言ってくれたのに」
シンイチはそう言って、今度は少しだけ穏やかに笑った。
「気持ちはちゃんと受け取ったよ。ありがとな、先生」
「先生はやめてくれ」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
「イハラで。昔、大切な人にそう呼ばれていたんだ」
「これからも息子をよろしくな。イハラ。俺のことはシンイチって呼んでくれ」
数日後の診察の合間。
空いた時間にクリニックの待合室で二人は並んで缶コーヒーを飲んでいた。壁にはめ込まれたテレビから、海外のニュースが流れてくる。中東の紛争地帯、砂煙の中を進む武装集団の映像だった。
シンイチは微かに眉をひそめ、画面を見つめていた。銃の持ち方、隊列の乱れ、砂嵐に隠れた微妙な動き……そこから読み取れることは多い。映像の中の、民兵たちは整然とはしていない。銃の持ち方や間隔、砂煙に隠れた動き方から、統制の甘さが滲んでいた。
「……あれはAK系の改良型だな。通常のAK-47よりもガスピストンが強化されてる。マガジンは古いタイプだけど……おそらく現地の民兵部隊か、訓練の浅い傭兵か……」
画面を凝視しながらシンイチはさらに続ける。
「おいおい…………あっちはHK416やM4ベースのガスピストン式ライフルじゃないか。国際支援を受けた特殊部隊の一員だろうな。これで交戦するのかよ」
イハラは驚いて横を見た。
「シンイチ、お前、詳しいんだな」
「え? いや、昔ちょっとだけ。趣味ってやつ」
シンイチはごまかすように缶を持ち上げたが、その直後、無意識にテーブルの端に置かれた一冊の古びた雑誌に手を伸ばした。
「これ、懐かしいな。え? イハラもこういうの好きなの?」
「いや、退院した患者が置いていったものだよ」
シンイチが指でなぞったのは、数年前の『月刊アームズマガジン』だった。角は折れ、ページは日焼けしている。
「ああ、これ、特集がPMC(民間軍事会社)とCQB(近接戦闘)か。熱かったなぁ」
懐かしそうにぱらぱらとページをめくりながら、シンイチは完全に素の顔になる。イハラは呆れたように笑った。
「ずいぶんマニアックだな。お前、昔からこういうの好きだったのか?」
「10歳からサバゲーやってたよ。いとこの影響で。親に許してもらえなくて、勝手にエアガン買って怒られたけどな」
「すごいな」
「まあ、学校の勉強より、軍事や銃の勉強のほうが好きだった」
「なるほど」
そこまで話して、イハラはふと思いついたように言った。
「今でも好きか?」
「……あぁ、いや。子どもが病気になってから、手放したよ。装備も銃も」
シンイチはそう言って、雑誌を閉じた。未練とも、忘れられないものとも、呼べない何かが見える。
「じゃあ、今は?」
「今は、って?」
シンイチは首を傾げる。
「もし、その知識や腕が役に立つ仕事があるとしたら、どうする?」
シンイチはイハラの顔を見た。無言のまま、少しだけ目を細める。
「……どんな仕事だよ。強盗とか、詐欺とか……闇バイトなら断る」
「違う。でも、まだ詳細は言えない。そして、金にはなる」
シンイチはイハラを見返した。
「冗談だろ。あんた、なんの組織に関わってるんだ?」
「冗談なら、もっと軽いやつを言うよ」
イハラの目は、いつになく真剣だった。
「俺は、ただの医者じゃない。この国の裏にあるものを、見ているんだ」
沈黙が落ちた。
「だったら俺も、一緒にその裏側を見てやるよ」
「なら、俺の知り合いを紹介する。仕事の話は、それからでもいい」
それが、あの冬の夜に缶コーヒーを差し出した警察官との再会につながるとは、シンイチにはまだ分からなかった。




