「イハラとシンイチの過去」
「人手が足りないんだ」
恩師は電話の向こうで、ため息混じりにそう言った。
「きみがいま何をしているのか、詳しくは聞かない。でも、手伝ってくれるだけで助かるんだよ」
イハラは断りきれなかった。医者を辞めてから日も浅い。月に数回、町のクリニックでなら、何とかなるだろうと思っていた。
その日もいつものように慌ただしかった。
次の患者は高熱を出した子供、呼吸も苦しそうだという。
「次の方。どうぞ」
診察室のドアが静かに開いた。入ってきたのは、やや痩せぎすで顔色の悪い男と、その手をぎゅっと握っている小さな子どもだった。
「こんにちは」
イハラが目を上げると、男は軽く頭を下げた。しかしその背中には、どこか居心地の悪さがにじんでいた。
「今日はどうされましたか」
「子どもが……昨日から熱が下がらなくて」
男は言いながら、子どもを診察台へ抱き上げた。
子どもはぐったりしているが、意識ははっきりしていた。
イハラは優しい声で話しかけながら、聴診器を当てる。
「こんにちは。ちょっと冷たいけど、ごめんね」
「……ん」
子どもは弱々しく頷いた。
手早く診察を進めながら、イハラはちらりと父親の顔色を見る。ひどく疲れている。睡眠不足。肌も荒れている。何より、目の奥に焦燥がにじんでいた。
――こっちのほうが心配だな。寝不足と疲労で限界ギリギリに見える――なのに、子どもには穏やかに話しかけていた。
「大丈夫、大丈夫だ。終わったらアイス買って帰ろうな」
「ウイルス性の熱だと思います」
イハラがそう言ったとき、男がわずかに目をそらした。
気づかれまいとしたその仕草に、イハラは医者としての勘が働いた。
「どこか、他の病院にも通われていますか?」
「ええ。大学病院で定期的に」
「持病?」
「診断名はつかないんですが、症状が免疫系や神経系にまたがっていて。国の指定難病には入っていないんですけど、研究対象として扱われているらしくて。月に一度、大学病院で精密検査を受けてます」
言いながら、男の声が少し揺れた。
「いつも『経過を見ましょう』って言われるばかりで……。入院しても、ベッドの確保が難しいって理由ですぐに帰されることも多くて。治療が進んでる実感が持てないんです」
イハラはその言葉に、わずかに眉を動かした。
「主治医と、治療方針については?」
「できるなら、とっくに。何度も相談してるつもりなんです。でも、複数科にまたがるケースは専門外って押し戻されて……。どこに聞いても、担当じゃないって言われるばかりで」
その一言に、イハラはふっと息を漏らすように笑った。
「大きな病院は、命に関わる急性期が優先されますから。慢性的で原因不明のケースは、後回しになることも珍しくない」
男が驚いたように顔を上げた。イハラは手袋を外しながら、静かに言葉を続けた。
「でも、子どもの病気って、親にとってはそれだけで命が削られるような問題ですよね」
その言葉に、男の目にかすかに色が戻った。
「あなた、かわった医者ですね」
「昔はちゃんと医者でした。今は、まあ臨時のバイトです。わかりました。もう少し詳しい検査をしましょう」
「検査しても何も変わらないと思います……でも……お願いします」
イハラはすぐに診察に入り、子どもの状態を詳しく確認した。血液検査、神経学的反応、免疫プロファイル……必要な検査はすべてその日のうちに行った。
後日、検査結果をもとにイハラは静かに告げた。
「息子さんの症状は複雑で、いくつもの要因が絡み合っています。正直、大学病院でも扱いにくいケースだった理由がわかります。ですが――即入院が必要な状態です。こちらの病院なら、長期的な入院や柔軟な対応が可能です。しばらくは、私たちに任せてもらえますか?」
シンイチは深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「薬も治療法も、まだ確立されたものはありません。けれど、可能性があるなら、私はそれをすべて試したい。新しい検査も追加でお願いすることになります。それから、今後に備えて、必要になりそうな薬のリストや、連携できそうな専門施設の情報もまとめておきます。それをなるべく早く、書類にしてお渡しします」
そこでイハラは、シンイチの目をまっすぐ見据えた。
「私は、あきらめません。この子が元気になるために、必ず何か掴んでみせます」
シンイチは苦しい表情を浮かべながらも、イハラの言葉にほんの少しだけ希望を感じていた。
このときは、医師と患者の父親という関係だった。だが、この出会いが、のちに命をかける絆になるとは、まだ誰も知らなかった。
この日を境に、イハラはときどき、彼―――シンイチに声をかけるようになった。
診察ではない、ただの世間話。だが、シンイチが次第に言葉を返すようになるのに、そう時間はかからなかった。
子どもがイハラに「先生、今日注射ある?」と聞く。
「今日は注射ないよ」
イハラが子どもにそう言ってみせると、子供の顔がぱあっと明るくなる。その様子を見ていたシンイチは小さく頭を下げた。その仕草も、無骨で、慣れていない。けれど律儀で、真面目そうだった。
「この前の薬、よく効きました。少しだけど、あいつも笑うようになったし」
微かに笑うシンイチに、イハラは「それは良かった」と言いながらコーヒーを淹れる。
診察室の隅に置かれた、パイプ椅子。休憩室がないクリニックでは、二人してそこに腰を下ろしてよく話すようになった。シンイチはイハラの言葉に素直に耳を傾けていた。
そして何より、イハラに医者としての匂いがあまりしなかったのが、彼にはちょうどよかったのかもしれない。
いつしか二人の間に敬語はなくなっていた。




