「沈黙の距離」
一方、病院で検査を終えた政悟は、椅子に腰を下ろしてペットボトルに口をつけた。
待合室の空調はほどよく冷えていて、壁の時計だけが、機械的な音を立てている。
イハラは隣で黙って座っていたが、不意にぽつりと口を開く。
「……あの人、本部の人間だったんだな」
「霞さんのことですか?」
「ああ。政悟も、知らなかったんだよな?」
「はい。知ったのは、昨日です」
政悟の声に怒りや不満の色はなかった。ただ事実として口にする。それが逆に、イハラの胸に引っかかった。
「……それで、怒ってないのか?」
少しの沈黙を置いて、政悟は苦笑した。
「怒る理由、ありますか? みんなは……多分、僕のことを考えて、言わなかっただけだと思うし」
「……」
「それに、あの人がスパイだったって聞いて、なんか……納得しちゃった自分もいて」
政悟は自嘲気味に笑いながら、指先でペットボトルのキャップをくるくる回す。
「まぁ、でも、ほんとは、ちょっと寂しかったですけど」
イハラは政悟の顔を見つめる。
「優しいな、おまえは」
「イハラさんは?」
その問いに、イハラはすぐには答えなかった。
「俺は、知らされなかったことが……引っかかってるだけだ。政悟とは、立場が違うからな」
―――霞が上から送られたスパイだった――そう告げられたとき、イハラは最初、意味がわからなかった。あいつらに、いつから気づいていたんだと、聞く気にはなれなかった。
霞と交わした会話、あの距離感。彼女が淹れてくれたコーヒー。微笑んだ横顔。
(俺だけ知らなかったのか……)
急に、胸の奥が焼けるようだった。
(――あいつら、彼女と話してる俺を、心の中であざ笑ってたのか?)
誰かの嘲笑が、頭の奥で響く。
(いや違う、そんなはずない――)
そう思いたいのに、疑念が止まらなかった。
「……そっか」
政悟はそれ以上、何も言わなかった。
二人の間には、薄くて固いガラスのような静けさが流れていた。
政悟は、八真人について尋ねようとした。
だが、その言葉は喉の奥で留まり、声にならなかった。
まだ確信ではない。だが、無視もできない。そんな疑念を、イハラにぶつけるのは、どこか違う気がした。
――――――――――――――――――
外は肌寒い風が吹いていた。
街灯も届かない空き地に立つ二人の男がいた―――シンイチとイハラだ。
「悪かったな。お前に、霞さんの話をしなくて」
シンイチが言った。いつも通り、飾らない声だった。イハラは一度だけ小さく息を吐き、「ああ」とだけ応じる。
しばらく沈黙が続く。どこか遠くで車のクラクションが響いた。その音に紛れるように、イハラがぽつりと口を開いた。
「そういえば、お前、政悟に言っただろう。京都の任務―――」
「ん?」
「俺と隼斗の話だよ」
シンイチは少しばつが悪そうに「ああ」と言いながら笑った。
「悪い。政悟なら、お前と隼斗の中和剤になるかと思ってな。それに、あいつ……全部を知りたがる性分だろ?」
「……確かに」
イハラの目が細くなる。懐かしむような、どこか切ないような声で彼は続ける。
「政悟は、誰よりも対象者に詳しい。名前も、生い立ちも、罪の内容も。……どうやって調べてるのかは分からないが」
「そりゃあ……あいつ、寝ないで調べてるからな。俺、何回かパソコンの前で潰れてるの見たことあるぞ」
「もしかしたら――政悟は殺す理由を探しているのかもしれない」
「え……?」
「対象者がどんな奴で、どんな罪を犯して、被害者がどれだけ苦しんで……殺すに足る理由を、いつも探しているんだ。そうでもしないと、自分を納得させられないんだろうな」
シンイチは黙った。視線は足元に落ちている。まるでそこに政悟の影でも見ているかのように。
「政悟は、班のみんなが好きなんだよ」
静かに、でも確信のある口調で、シンイチが言った。彼は続ける。
「誰か一人でも欠けることが、怖いんだ。あいつは、そういう奴だ。だからお前と隼斗が――」
その言葉に、イハラは顔をわずかにしかめた。
「だからって、政悟に話すな。彼はまだ子供だ。抱えきれないほどの重荷を与えていいわけがない」
ぴしゃりとした口調だった。
「そういえばお前は、初めて会ったときから、変わってなかったな」
シンイチの言葉にイハラが少し目を丸くする。
「初めて?」
「そう。病院で俺と息子に会った日だよ」
その瞬間、イハラの記憶が、ふっと過去に引き戻されていった。




