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「崩壊の序章」

 霞を本部へ送り返した翌日。

 

 家には和大と隼斗の姿だけがあった。

 

 政悟は朝からイハラに連れられ、病院で念のための検査を受けている。熱は下がったが、まだ本調子ではなく、学校も休ませている。

 

 窓の外では細かな雨がガラスを叩き、天気予報通りの梅雨空が広がっていた。

 沈んだ空気の中、ちゃぶ台を挟んで向かい合う兄弟のあいだにも、張りつめた沈黙が漂っていた。


「――それで、ちゃんと抗議してきたんだろうな。今回の任務、結局中途半端に引き上げたんだぞ」   


 隼斗が眉間に皺を寄せながら口を開いた。不機嫌さを隠そうともしない声。その怒りの矛先がどこにあるのか、和大には分かっていた。


「ああ」

 頷いた和大は、少し間を置いてから続けた。


「だが、上の言い分はこうだ。『班員は目立たず一般市民に紛れて生活する。それが鉄則だ。きみたちのお父さんの件は残念だったが、先日加害者と言い合いになっただろう? あの場で刃傷沙汰でも起こせば、マスコミの餌食だ。きみたちは任務に私情が入りすぎている。彼女は――いわば監視役だったんだよ。今後、守れないようならこちらにも考えがある』だとさ」

 最後の一言には皮肉が混じっていた。


 雨の音が、しばし沈黙を埋める。


「……見られてたのかよ。この前のこと」


 隼斗の声が低くなった。拳を膝の上で握りしめながら、ぽつりと吐き出す。


「駒は駒らしく、静かにしとけってことか。余計なことはするなと」


「まぁ……俺たちの存在は、どこまでも『なかったこと』になってるからな。上の言い分も、分からなくはない。それよりも、また任務の話が出た」


 淡々と告げる和大を見て、隼斗は大きく、深く息を吐いた。


「あんなことしといて任務かよ。……なぁ、和兄。班独自のルールを作らないか?」


 不意に投げかけられた提案に、和大はわずかに眉を上げた。


「これからも、上はいろんな人間を送り込んでくるかもしれない。そうなったら……もしも勝手な真似をする奴が出たら――和兄が責任を取らされることになる。それって、あいつらの思うつぼじゃねぇか」


「……ルールって、例えば?」

 和大が促すと、隼斗は指を一本立てて数え始めた。


「まず、『班長の指示に従わず勝手な行動をとったら即、追放』それから、『対象者と内通した場合、発覚時点で俺たちが直接制裁』こうすれば、少なくとも和兄の首は繋がる。俺たちの中で対処できる仕組みにして、上にもそれを通したい」


「……いや、ルールは必要ないんじゃないか」

 和大は静かに首を振った。


 その言葉に隼斗の表情がわずかにこわばる。


「俺は、みんなを信頼してる。それに……俺たちの班は、縛るための組織じゃないだろう?」


「……あのなぁ」


 隼斗が苛立ちを露わに、立ち上がった。


「何でも好き勝手する奴が入ったら、班は崩壊するぞ。全員が自分を律せると思ったら、大間違いだ。だから枠が必要なんだよ、最低限のな。信頼とか甘さじゃ、守りきれないこともある」


 和大は、窓の向こうに視線をやった。灰色の雲が低く垂れ込め、遠くで雷の音がかすかに響く。


「……それでも俺は、仲間が道を踏み外しそうになったとき、ルールで縛るんじゃなくて、まず理由を聞いてやりたい。そうするのが……俺の役目だと思うんだよな」


 そう呟くように言った兄に、隼斗はしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと呟く。


「俺たちは今まで命じられるままに任務をこなしてきた。何も言わずに。それなのに、いざ都合が悪くなったら、この仕打ちだ。表に出せない存在だからって――あんまりだろ、これじゃ」

 沈黙のなか、雨音だけがしとしとと続いていた。窓の外に広がる湿った空気が、二人の間の重苦しさをそのまま映していた。


――その会話のすべてを、玄関の外で聞いていた者がいた。


 雨の中、庇の下に立っていたのは八真人だった。


 濡れた靴を気にすることもなく、ドアのすぐ前に立ち、黙って耳を澄ませていた。


 室内の声がはっきりと聞こえるのは、偶然でも、耳の良さのせいでもなかった。この家を訪れた初日、彼は居間にある写真の裏側に小型の盗聴器を仕掛けていた。本部から与えられた任務。あくまでそれだけのはずだった。

 最初は、三兄弟の何気ない会話が滑稽にすら思えた。真面目すぎる長男に、ぶっきらぼうな次男、子どもっぽい末弟。くだらない日常。油断だらけのやりとり。


 だが、いつしか八真人は、気づけばその声に耳を傾けていた。

 それが「報告のため」ではなくなっていたのは、いつからだっただろうか。盗聴器は外さなかった。任務を投げ出すほど甘くはない。


 ただ――あの居間の笑い声が、あの家の温度が、彼のどこかに染みついてしまっていた。

 やがて、会話がひと段落したのを感じ取ると、八真人はそっと視線を下げ、ドアノブに伸ばしかけた手を止める。

 そして、静かに踵を返した。

 誰の声も背にせず、彼は闇の中に紛れるように歩き去る。

 誰にも届かない声で、彼は呟いた。

 

「……俺は、誰の味方なんだ……」

 

 その言葉は、雨に打たれながら、音もなく消えていった。



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