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「静寂の微熱」

 施設から離れた道を、シンイチの運転する車が疾走する。

 後部座席には政悟と八真人。政悟はぐったりとして八真人の膝に頭を乗せていた。


「政悟……」

 八真人はそっとその額に触れる。熱い。


「まずい、かなり熱があります」


 呟くような声に、運転席のシンイチがわずかに目を細める。


「……こいつ、昨日から咳してただろ。ったく無理すんなよ……」


 シンイチの運転する車は、闇に溶けるように一軒家へと向かっている。


「もう少しだ。政悟、頑張れよ」

 シンイチの声が前から飛ぶ。


「イハラが先回りして待ってる。あいつなら、何とかしてくれる」


 その言葉が、車内の張り詰めた空気をわずかに和らげた。


 政悟を乗せた車が家の前に停まった。


 車が到着すると、バイクで先に帰宅したイハラが家の前で待っていた。ドアが開くと同時に、すぐに政悟の容体を確認する。


「熱が高いな……とにかく部屋に運ぼう」


 八真人とシンイチが手際よく政悟を運び入れる。政悟を部屋に寝かせ、イハラが、胸の音を聴診器で確認する。


「マイコプラズマかもな……。熱の割に咳が弱かったから、見逃してた」


 低酸素状態と脱水も進んでいた。イハラは静かに処置を始めた。

 点滴の代わりにスポーツドリンクを少しずつ摂らせ、処方薬の抗菌薬と解熱剤を与える。部屋には加湿器。イハラは自分の医療バッグから必要な器具を取り出し、肺の音や血中酸素濃度を測りながら、政悟の回復を見守った。


「あと半日遅れてたら、肺炎が進行してた……」

 誰に言うでもなく呟いたイハラの声に、わずかに震えが混じっていた。



 後から別の車で追いついた隼斗は、ちらりと後方を振り返った。


 霞がゆったりとした足取りで歩いてくる。月明かりの下、白い肌がどこか冷たく見えた。


 「……あのロック」

 

  隼斗が低く、吐き捨てるように言った。


 「お前なら、あの程度――本気を出せば、突破できただろう。それとも自分でロックをかけたか?」


  霞は表情を変えなかった。ただ、わずかに首をかしげてみせた。


 「ふふ、そう思う?」


 「ああ。お前、部屋に閉じ込められてから、動きが妙に待ってるように見えた」

 

  霞は息をつき、空を見上げた。


 「……だって、あなたたちが、どこまで私を守るつもりなのか、見たくなったの」

  その声音は、どこか無邪気にすら聞こえた。

 

 「お前、政悟が倒れたのを知ってて、わざと時間を稼いだな」

 

 「結果的には、ね。でも私が何かした証拠は?」

  挑発するように、霞はわずかに微笑んだ。

 

 隼斗は舌打ちしそうになるのを堪える。

 「……ほんと、嫌な女だな」

 

 「褒め言葉として受け取るわ」


  二人の間に言葉が途切れたそのとき、家の中からイハラの声がした。

 「隼斗、政悟を部屋に運んだ。薬箱を持ってきてくれ」

 「……了解」

 

 隼斗は背を向けて歩き出した。その後ろ姿を見つめながら、霞は一言、誰にも聞こえない声でつぶやいた。

「なかなか壊れないわね……ここは」


――――――――――――――――――


 翌日、政悟は自分の部屋で眠っていた。

 

 イハラの調合した薬のおかげで少しは熱が下がったものの、体のだるさはまだ抜けきらない。

 

 ふと、額にひやりとした感触が走った。濡れたタオルが置かれている。一瞬、その手つきに、誰かを思いかけた。

 

――母さん? だが、すぐに違うと気づく。同時に、怒りにも似た拒絶が込み上げた。

 

 政悟は眉をひそめ、タオルを手で乱暴に払った。


「……触らないでください」


「え?」

 傍らでタオルを交換していた霞が、わずかに目を見開く。

 政悟は視線を合わせず、布団を引き寄せて背を向けるようにして言った。


「……勝手に僕の部屋に入らないでください。別に、あなたに世話してもらいたいなんて頼んでません」


「でも、まだ熱があったから……」

 霞の声は言い訳のように弱々しくなる。


 政悟はその声音にも、なぜか苛立ちを覚えた。


 ―――シンイチさんが入ってくるのは気にならなかった。イハラさんにも素直に手当てを受けた。でも、この人は違った。まるで母親みたいに、断りもなく世話を焼いて、当たり前の顔で自分の部屋にいる。母親なんて、覚えていない―――


 けれど――だからこそ。

 思い出しそうになるたび、傷のようなものが疼いた。


 そのまま、政悟は布団を頭まで引きかぶって黙り込んだ。


 霞はそっと立ち上がり、静かに部屋を出て行った。入れ替わるように、イハラとシンイチが入ってくる。去っていく霞の背をちらと見やって、シンイチが口を開く。


「政悟、調子はどうだ……ったく、無理しやがって」


「まだ、だるいです……」


「政悟、お前ちょっと霞さんに言いすぎじゃないか。彼女はお前を心配してだな――」

 やや困ったようにイハラが言った。


「おせっかいなんですよ」

 政悟は短く返す。


「さてはおまえ、反抗期だな」

 冗談めかした声で、シンイチが笑った。


「違います」

 政悟は間髪入れずに否定する。


「いやいや、反抗期ってのはな、自分じゃ気づかないもんなんだよ。終わってから振り返って、『あの頃の俺、若かったな〜』って思うもんだ」


「……そうだな」

 イハラも苦笑する。


「だから違うって言ってるでしょう。そもそも、あの人は僕の親でもなんでもないんです。僕、もう寝るんで!」


 そう言って、政悟は布団を頭から被った。その言葉には、苛立ちとも羞恥ともつかぬ色が混じっていた。



 午後の日差しは雲に遮られ、部屋の中はぼんやりとした薄明かりに包まれていた。


「入るぞ」


 低く抑えた声とともに、八真人がそっと政悟の部屋へ入ってくる。手にはスポーツドリンクのペットボトルと、冷えピタの新しいパック。


 「……イチくん」


 政悟の声は、いつものような張りがなかった。八真人はため息をつきながら、袋から冷えピタとスポーツドリンクを取り出して床に置いた。 


 政悟はふにゃ、とした表情で八真人を見上げた。


「起こしたか」


「起きてた……なんか、変な夢見て、寝られなかった」


「そうか……」

 八真人はそう言いながら、ふとんの傍に膝をついて座る。


 「……ねぇ、僕って反抗期なのかな」


 政悟がぽつりとこぼした。


「霞さんの顔、見るだけでムカムカするんだ。なんでかわかんないけど……やだなって思う」

 その声は少し鼻にかかっていて、拗ねたようでもあり、甘えるようでもあった。


 「……まあ、あの人……隼斗さんに気があるようだしな。政悟に優しいのも、隼斗さんに見せるためにやっているんだろう」


 八真人は、政悟の額に新しい冷えピタを貼りながら言った。


「やっぱり……そうなんだ。あの人、わざとなんだ……イチくんって時々鋭いこと言うね。恋愛話はさっぱりだったのに」


「さっぱりとは、余計なお世話だ。それに俺だってだな。恋愛の一つや二つ……」


「あるの?」

 政悟が目を輝かせる。


「……あっても、お前には絶対に言わない。俺もあの人は苦手だ。用心に越したことはない」


 それっきり、八真人は黙った。二人の間に流れた静けさは、不思議と心地よいものだった。


 少しして、居間でデータ整理に集中していたイハラのもとに、マグカップが差し出された。

コーヒーの香り。淹れたてだ。


「イハラさん、ブラックでしたよね」

 霞が柔らかな笑みを浮かべていた。


「……ああ、ありがと」

 受け取りながら、イハラはわずかに首を傾げる。

(なんで俺の好みを……)


「イハラさんって、いつも冷静に全体を見てますよね。ほんと、頼りになります」

 その声は嫌味も芝居もなく、ごく自然に響いた。


「……あんまりおだてないでください。調子に乗りますよ」

 イハラが少し照れたように笑い、コーヒーに口をつけた。


 その様子に――気づかないふりをして、隼斗はそっと視線を逸らす。


 少し離れた場所で、そのやり取りを見ていたシンイチと、ふっと目が合った。無言のまま、どちらも何も言わない。話しかけるべきか。けれど――


 隼斗は視線を戻し、黙って腕を組み直した。シンイチはペンを指先で回しながら、ただ一点を見つめていた。


 霞の微笑みは変わらず、静かにイハラの前から立ち去っていった。


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