「夜の境界線」
夜。
寮の裏手にひっそりと停まる車の中で、政悟はライトと通信機を確認していた。
イハラは低い声で告げる。
「滞在は最長でも15分。無線が切れたら撤収する。わかったな」
「はい」
八真人が横から、簡易な地図を指差す。
「サホの部屋は二階の突き当たり。廊下に監視はないが、巡回が来る時間と重なると危険だ。戻りはこの非常階段を使え」
「ありがとう。行ってくる」
政悟はうなずき、黒いパーカーのフードを被った。
建物の中は、昼間のざわめきが嘘のように静まり返っていた。
足音を忍ばせ、階段を一段ずつ登っていく。ドアにはプレートが貼られている。
《203》
サホの部屋。
政悟は小さくノックをした。応答はない。
「……サホ?」
低く呼びかけると、内側から鍵が回る音がした。
ドアがわずかに開いた。
「……どうして……?」
サホは寝間着の上にカーディガンを羽織り、怯えた顔で政悟を見つめていた。
「迎えに来た。ここを出よう」
「……無理だよ。私は、ここにいない人間なの。いない方が、きっと……」
「そんなこと言うな」
政悟は一歩踏み込んだ。部屋の奥には、最低限の家具と薄い毛布がたたまれたベッド。
彼女の暮らしぶりは、想像よりずっと静かで、そして孤独だった。
「私は大丈夫。だから、あなたが来たら、逆に……」
「サホ」
政悟はかがみこみ、目線を合わせた。
「……助けてって、言ってないって顔してるけど、あのとき渡した紙、あれは願いだったんだろ?」
サホの肩が小さく震える。彼女は唇を噛みしめたまま、答えなかった。
「……きみは、もうずっと、自分を犠牲にすることでしか、生き延びる方法を知らなかっただけだ」
政悟はそっと、彼女の手を取った。細くて冷たい手。サホの目が揺れた。
「……でも、もし連れ出したら、あなたが……」
「僕なら大丈夫」
政悟は、いつもの笑顔ではなく、少し照れくさそうに笑った。
「仲間が、ちゃんと助けてくれるから」
一拍の沈黙のあと、サホはこくりと、小さくうなずいた。
政悟とサホは非常階段を駆け下り、八真人の待つ裏口から無事に外へ出た。
草むらを抜けてワンボックスのドアを開けると、イハラが無言で頷いた。
政悟が車内にサホを乗せ、ドアを閉める。
「……急げ」
イハラの一言で、車は走り出す。
政悟の手には、まだサホの冷たい手の余韻が残っていた。
車の中でサホが、ふと政悟に小さく聞く
「……私、本当に、出られたの?」
「うん。出たんだよ、もう」
サホを乗せた車は建物を離れていく。まだいなくなったとは誰も気づいていない。
だがそれも、時間の問題だった。後部座席のサホは、眠るように座席に寄りかかっていた。
その顔に浮かぶのは、怯えでも安堵でもない、ぽっかりと穴が開いたような表情。
助手席の八真人が小声で運転席にいるイハラへ伝える。
「――目的地まで20分です」
イハラは短く頷いた。
これから向かう施設は表向き「青少年福祉センターの研修棟」となっている。しかし実態は、TNTが用意した保護下の一時避難所で、証人や被害者の仮名登録を用いた生活が可能な場所だった。
「班長がすべて段取りした。すでに職員が待機してる。偽名の入所記録、医療記録、全部手配済みだ。追跡されることはない」
政悟はそのやりとりを聞きながら、車の窓に額を預けた。吐く息が、わずかに白く曇る。
「政悟、大丈夫か?」
八真人がふと振り返る。
「……うん。ちょっと寒気がするだけ。平気」
「おまえ、少し前から咳してたろ」
政悟は力なく笑って見せた。
「今さら止まれないよ。まだ、もう一つ……あるから」
イハラがバックミラー越しに視線だけで合図する。
「金庫の件は予定通り、だな」
「はい。金庫を開ける手順は覚えてます」
「よし。中身を確認したらすぐ出ろ。おまえの体調じゃ、長居は危険だ」
政悟は無言で頷いた。その横で、サホがぽつりと囁く。
「……ごめんね。私のせいで……無理させて……」
「違うよ」
政悟は顔を上げた。
その目は熱で少し潤んでいるが、意志は変わっていなかった。
「きみのせいじゃない。僕が……助けたかっただけだから」
しばらく沈黙が流れたあと、サホがそっと彼の手を取った。
冷たいその手を、政悟は握り返すことなく、ただ包み込むように軽く触れた。
車はやがて、郊外の静かな建物の前に滑り込んだ。
看板もないその小さな建物は、外見は古びた保養所のようだったが、扉を開けると白衣の職員がすぐに現れた。
「連れてきました。夜間の対応、感謝します」
八真人が礼を言い、書類を渡す。
職員が封筒を受け取り、内容を確認する。
「部屋をご用意しています。こちらへ」
サホは、政悟の方を振り返った。
「……また、会える?」
「うん。きっと」
小さな頷きのあと、サホは職員に付き添われ、扉の奥へと消えていった。
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車に戻った政悟は、手の甲で鼻を拭い、深く息をついた。息は熱を帯びて、胸の奥でざらついた音を立てていた。
「政悟、大丈夫か?」
イハラの声には、明らかな疑念が滲んでいた。
「はい。行けます。今夜しか入れないんです。主任は今、家族と外食中です。それに、近々異動するようです。今夜を逃したら、鍵も暗証番号も変わります。せっかく物理キーを複製したのに、使えなくなってしまう」
政悟の声は落ち着いていた。だが、その肌はやや青白く、時折乾いた咳が混じっていた。
「……お前、熱あるだろ」
「ちょっと寒気がするだけです。問題ありません」
「政悟――」
「イハラさん。僕しかあのタイミングを知らないんです。暗証番号を押すのと、鍵を回すのを同時にやらないと開かない。場所も、順番も……僕しか見てない。なら、行くしかないでしょ」
政悟はファイルを閉じて立ち上がった。
もう一つの任務が、待っていた。




