「覚醒の代償~セミナー潜入3日目②」
セレモニーのあと、選ばれた2組は重い扉の前に通された。
扉が開くと、幹部が静かに立っていた。
「……では、こちらへ」
案内されたのは、さらに奥まった個室だった。
「羽瀬川さんが選ばれたの、ちょっと意外でした」
千晶の声は柔らかい。だが、そのまなざしは穏やかさとは程遠い。
「羽瀬川さんみたいな人って、あまり導かれる側じゃないと思ってたから」
言葉の棘が、ふわりと漂う。
「導かれるかどうかは……その場で決めるタイプなんです。必要なら導かれてみようと思ったんです」
霞は微笑み返す。
「ふうん。ねぇ、知ってました? この後、私たちのどちらかが真の選ばれる人になるんですよ」
「ええ、そのくらいは」
霞は笑みを崩さず言った。
その隣では、崇と隼斗がやや離れて座っていた。
隼斗は会話に加わらず、壁の換気口やカーテンの隙間に視線を走らせている。
「……そうやって周囲をよく見てらっしゃる」
崇が声をかけてくる。
「さすが、ビジネスの世界で生きてる人は違う。危機感がありますね」
隼斗は視線を向けず、気のない返事を返す。
「ただの癖です」
「でも、ここでは少し緩めた方が楽になれますよ。疑いの目を持ち続けるのは、誰よりも自分を傷つけますから」
次に口を開いたのは霞だった。
「桂木さんは、もうこちらに3年も通われているとか」
千晶が唇を吊り上げるように笑った。
「ええ、3年目にして、ようやくここまでです。選ばれるまでの試練は、言葉にできないくらい。でも、数日前に来たばかりで選ばれたあなたには分からないかも」
「実は、決めたんですよ。僕たち……ここにすべてを預けようって。大事な資産も、これからの未来も――全部。信頼できる場所にね」
崇が、軽やかに笑みを浮かべながら言う。
千晶が頷く。
「ここで得た気づきが、何よりの財産になるって、ようやく分かったんです」
霞は、何も言わずにその言葉を聞き流すように頷いた。
そして幹部が、一歩前に出る。
深い呼吸をしてから、語り始めた。
「羽瀬川さん――あなたがこれまで築かれてきた外の世界の富は、いまここで、内なる成長へと変換されようとしています。それは、決して譲渡ではありません。あなた自身が――魂が――本質に目覚めるための、覚醒なのです」
その言葉は、まるで祈りのように静かで、だが確かに感情の奥を揺さぶるような響きを持っていた。
その視線が霞だけでなく、隼斗にも向けられる。
「そして八神さん。外の世界での力と実績……そのすべてを、内側へと反転させるときが来たのです」
隼斗は、何も言わない。 ただ、霞の横顔をちらりと見る。
「選ばれる、ってこういうことなんですよ」
崇が言った。
「世の中には、与える側になる人間と、与えられる側の人間がいる。でもここでは、それがひっくり返る。あなたももう、気づいているでしょう?」
隼斗はゆっくりと椅子に背を預け、口の端をわずかに持ち上げた。
「さぁ……」
視線を崇に向けることなく、隼斗はさらりと答える。
「選ばれたのが誰か、最後に笑ったほうが決めるんじゃないんですか?」
ふっと口元を歪める。
「全てを差し出すには、まだ気が早い」
空気がぴんと張った。
「ねぇ、崇くん……本当に、準備……してるよね?」
千晶の声に、崇は少し大げさに頷く。
「もちろんさ。僕たちには信頼してる証があるからね。全部預けるって決めただろう?」
その言葉に、隼斗の眉がわずかに動く。
「信頼ってのは、見せびらかすもんでもないと思うけどな」
低く投げかけた言葉に、千晶の笑顔がぴくりと揺れた。
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静まり返る部屋に、白衣の女性スタッフが一歩、足を踏み入れる。
「お待たせしました。おふたり――いえ、お二組とも、ここまでよくお進みくださいました」
その声音は柔らかく、どこか祝福の色を帯びている。
桂木夫妻はぱっと顔を上げ、千晶が手を握りしめた。霞は静かに目を細め、隼斗は何も言わずにその場にいた。
「ですが、この先に進めるのは――たった一組だけです」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が微かに揺れた。
「今夜、この場で真に選ばれた魂は……」
スタッフが手元のタブレットに目を落とす。
「――八神 湊 様、羽瀬川 芽衣 様」
静寂。
次の瞬間、千晶の呼吸が一つ、大きく漏れた。崇も一瞬笑顔を凍らせ、それから急いで取り繕うように口を開く。
「……ああ、そうなんですね。僕たちは、まだ何かが足りなかったんだな。そういうこと、ですよね?」
その言葉は笑みをたたえていたが、目だけが笑っていなかった。
「ええ。ですが、あなた方の魂の成長も、すぐそばまで来ています」
スタッフはそう告げ、柔らかく微笑んだ。
「……そう、ですか」
千晶は霞に向き直り、ゆっくりと一歩だけ近づいた。
「でも、本当に選ばれたと思うなら……ちゃんと応えてくださいね。その価値が、あなたにあるなら」
その声は穏やかだったが、皮肉がにじんでいた。
霞は淡く微笑んだだけで、何も答えなかった。 夫婦は微笑を整え、スタッフの案内に従って静かに去っていった。
重い扉が再び閉じると、部屋には霞と隼斗、そして柔らかな灯りだけが残された。
「あの夫婦はサクラだな。今までの言動は全部芝居か」
「ええ。私たちを焚きつける役だったようね」
隼斗が小声で言い、霞が頷きながら返した。
二人が次に案内された扉の向こう――奥の部屋は、まるで異空間だった。
壁には宗教画のような抽象的なモザイクアートが施され、天井からは淡い琥珀色の光が漏れていた。
中心には丸く配置された椅子があり、白い法衣をまとった年配の男が静かに座っていた。
「ようこそ……真に選ばれし者たちよ」
その声は、低く深く、どこかで聞いたことのあるような、しかしどこまでも印象に残る声音だった。
幹部――導師と呼ばれる存在だろう。
「あなたがたは、富を持って生まれただけではない。気づく機会を与えられた、特別な魂です」
導師は視線を霞に向け、ゆっくりと微笑む。
「羽瀬川 芽衣様。あなたが受け継いだ遺産――それは、単なる物質的な豊かさではありません。それは、あなたの祖先が紡いできた縁と徳の結晶。……ですが、その意味を見出すことができなければ、それはただの重荷なのです」
霞は微笑を浮かべたまま頷いた。隼斗は黙って隣に座り、視線だけで周囲を警戒している。
「外の世界の富は、あなたが内なる世界を磨くために授けられたものであり、それを手放すことで、ようやく自由になるのです」
導師の声は、優しく、しかし確信に満ちていた。
「それは譲渡ではありません。覚醒なのです。あなたがたの魂がさらに次の段階へ進むために、いまここにあるものを解き放つ。それこそが、真なる献身の証なのです」
その言葉に続いて、隣のスタッフがそっと差し出したのは、一枚の意志確認書だった。
羽瀬川芽衣の資産譲渡に関する同意書――だが、それは仰々しい表現に包まれていた。
《心の進化に向けた覚悟の証明――あなたの選択は、未来の光となります》
霞は書類に目を通すフリをしながら、その裏側にある仕組みを冷静に見抜いていた。
ここまでの流れすべてが、寄付という名の略奪に向けた演出なのだ。
「……大きな決断ですわね」
霞はあくまで柔らかく言った。
「ええ。ですが、迷う必要はありません」
導師は、まるで親が子に諭すように告げる。
「あなたの心はすでに、ここに在るのです。この財産があなた個人のものである限り、あなたは孤独です。ですがそれが大いなる意志と結ばれたとき、あなたの魂は孤独ではなくなる。あなたの財は、千の魂を救うための光となるのです」
「ありがとうございます。とても、心に沁みるお話でした」
そして、少しだけ首を傾げて、静かに言った。
「書類の提出は……後ほどにしてもよろしいかしら。せっかくの気づきを、きちんと自分の言葉でまとめてからにしたいんです」
幹部は一瞬黙ったが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「もちろんです。内なる準備が整ったその時に、またお声かけください。すべては自由意志によって成されるべきですから」
その言葉の裏にある闇の気配を、霞は見抜いていた。
だが表情には出さず、深く一礼した。
「ありがとうございます」
隣の隼斗も、わずかに頭を下げる。
幹部が手を振ると、部屋の照明がさらに柔らかくなり、音楽がフェードアウトしていった。
3日間のセミナーは、こうして幕を閉じた。




