「静謐の選別~セミナー潜入2日目②」
セッションの合間の休憩時間、隼斗は別棟への廊下を進んだ。複数の部屋が並び、いくつかは使用中であることを示す赤いランプが点灯していた。そのうちの一つから、小さく呻き声のような音が漏れていた。
(あれは――?)
だが、それを確かめる時間はなかった。スタッフの足音が近づいていた。
部屋へ戻ると、霞が控えめに微笑みながら隼斗に頷いた。言葉はないが、演技を続けるよう促す合図だった。
午後の最後、二人は個別面談へと呼ばれた。霞は幹部と、隼斗は別のスタッフと。
「八神様。あなたのような若くして実績を残した方は、今の社会の中でも稀有な存在です」
「恐縮です。でも、僕の力じゃありません。周囲に恵まれていただけです」
スタッフは静かに笑い、言葉を続けた。
「この世界には、気づいた者にしか見えない扉があります。お連れの羽瀬川様は、その扉の向こう側をきっと見つけられるはずです」
隼斗は、薄く笑った。
「彼女が見たものは、俺が守りますよ」
面談が終わり、参加者たちはラウンジでくつろいでいた。やや社交的な雰囲気の時間だ。
その時、外国人講師らしき人物が、隼斗にフレンドリーに声をかけてきた。
「Hey, Mr. Yagami! I heard you’re running a fintech start-up? Sounds exciting!」
(やあ、八神さん! フィンテックのスタートアップを経営されてるって聞きましたよ。すごく面白そうですね!)
隼斗は一瞬だけ相手を見て、すん……と目を細めた。
その表情は「ちゃんと聞き取ってますけど、今すぐ話しかけるなオーラ」そのものだった。
横にいた霞が、自然な笑顔で割り込むように応じる。
「Yes, he started a digital asset management firm last year. You know, domestic regulations are strict, but he’s trying to expand carefully.」
(ええ、昨年、デジタル資産の運用会社を立ち上げたんです。国内の規制は厳しいですが、慎重に事業を広げようとしているところなんですよ)
「Oh, really? That’s impressive!」
(へぇ、本当ですか? それはすごいですね!)
相手は満足げにうなずき、隼斗に向かって親指を立てた。隼斗はほんの少しだけ眉を上げ、無言で軽く頷いた。そして会釈したあと、やや遅れて霞の耳元でぽつりと零す。
「助かった」
霞は小さく笑った。
「任せて。私、恋人だから」
その声はどこまでも落ち着いていた。
―――夕刻
「すみません。彼女と少し、外で夕食を……門限までには戻ります」
隼斗は低めの声でスタッフに申し出た。
「もちろんです。愛を育む時間も大切ですから」
案内役の女性は笑顔で頷いた。
その横で、霞がふっと笑みをこぼす。
「聞きました? 愛を育むですって」
「聞こえてる」
隼斗はそっぽを向きながら、ドアの方へ歩き出した。
霞が軽やかにその後ろをついていく。
「ねぇ、もし私が本気だったら、どうする?」
「『もし』って時点で、ややこしい」
「ふふ。そういうところ、意外と好きよ」
霞の笑みに、隼斗は一言も返さず、静かにドアを開けた。
二人の背中が、夜の空気の中へと消えていった。




