「幻影の恋人~セミナー潜入1日目①」
そしてこちらは政悟たちに心配されている隼斗と霞。
二人は、恋人同士を装っていた。
莫大な遺産を継いだ資産家の娘・羽瀬川芽衣と、その婚約者で若手実業家の八神湊。
その名義で事前に申し込んだのは、教団内部で開かれる2泊3日のセミナーだった。このセミナーは、ペアでの参加が前提とされていた。
恋人や夫婦、親子、友人――形式は問わないが、「信頼できる誰か」と一緒に参加することが必須条件とされている。大切な相手と共に過ごすことで、より深く自分自身と向き合う時間を作り出すというのが主催者の説明だった。
『大切な人と、本当の自分に出会う旅へ。このセミナーは、ペア参加を原則とした体験型リトリートプログラムです。恋人、夫婦、親子、友人。どんな関係であっても構いません。ただ一つ必要なのは、信頼という絆です。都市の喧騒を離れ、静かな環境で過ごす2泊3日。五感を整える食事、深い呼吸と瞑想、対話を通じて大切な人と絆を深める特別な3日間。
「自分を知り、愛する人との距離を縮めたい」
「繰り返す日常から抜け出し、人生を見つめ直したい」
そんな想いを抱えた方にこそ、ぜひ体験してほしい時間があります。
心の扉は、いつでも開かれています。あとは、あなたがノックするだけです。
──私たちは、あなたの気づきを待っています。』
そう謳われたそのセミナーは、SNS上でも一部の層に支持されており、口コミでは「心が整う」「人生が変わる」といった投稿が散見される。
もっとも、内部の詳細は参加者による発信が禁止されており、その実態を正確に知る者は少ない。だからこそ、特別感を煽るような形で密かに人々を惹きつけているのだった。
施設の外観は白を基調としたモダンな建物で、3階建て。まるでリゾートホテルのように見える。初見では、これが宗教団体の拠点だと気づく者は少ないだろう。
二人はエントランスに足を踏み入れる。間接照明が柔らかく光を灯し、石材を用いた床は滑らかに磨かれている。まるで、ホテルのラウンジのような品のある内装だった。
受付には清潔な白い制服を着た女性スタッフが笑顔で立っており、名前と予約を確認すると、柔らかな声でこう言った。
「ようこそ、真理の扉セミナーへ。おふたりのご参加を、心よりお待ちしておりました」
二人が受付を済ませると、セミナーラウンジに案内された。壁には「心の扉を開く」「真実は内なる声の中に」といったスローガンが控えめに掲げられている。参加者は全部で50名――25組ほど。
隼斗は霞と並んで座り周囲の様子を伺った。
照明が少し落とされる。ざわめきが収まったのち、壇上に立つのは、穏やかな笑みをたたえた女性講師だった。
白い衣装に身を包み、静かな声で語りはじめる。
「ようこそ、皆さま。この特別な3日間を、あなたの大切な人と過ごすことを選んでくださって、本当にありがとうございます。ここでは、肩書きも、年齢も、社会的な立場も関係ありません。どこに住んでいるか、何をしているか、どんな過去を持っているか――すべての枠をはずして、ただの自分としてここにいてください」
低く抑えられた照明の下、会場の空気はしんと静まり返っていた。周囲には優しい笑みをたたえた男女が並んで座っている。「うん、うん」と何度もうなずく者。目を閉じて静かに聞き入る者。全体が、ゆるやかな陶酔に包まれているようだった。
隼斗は無表情のまま、視線だけを講師の方に向けていた。一見すると真面目に聞いているようにも見えるが、その目はどこか警戒している。
隣に座る霞は、うっすらと笑みを浮かべながら、姿勢ひとつ崩さず講師の言葉に耳を傾けていた。
「日々の喧騒から少し離れて、大切な人と、もう一度心の距離を見つめ直す時間にしていただければと思います。隣にいるその人と、一緒に笑い、驚き、時には涙を流すかもしれません。でもそのすべてが、あなたの内側にある真の自分を照らしてくれるはずです」
隼斗の指先が、ほんのわずかに椅子のひじ掛けを叩いた。何かを測るように、ふっと息を吐いてから、そっと横目で霞を見る。霞は微笑を崩さぬまま、視線を前に向けたままだった。
「それでは、心の浄化について、共に学びましょう――」
壇上の女性講師が、柔らかな声で語りかける。室内には穏やかなBGMが流れ始めた。
「愛と感謝を意識することが、真の人生の豊かさにつながります。隣にいる大切な人の手を、そっと取ってみましょう――」
講師の声に従うように、会場のあちこちで、夫婦や恋人らしき参加者たちが微笑み合い、手を取り合っていた。
隼斗もためらうように視線を落とし、横目で霞を見る。
彼女は、もう手を差し出していた。隼斗はわずかに息をつき、その手を取った。細くて温かい。だがその温もりの裏に、彼女が何を考えているのかは一切読めない。
「……慣れてるな」
隼斗が低くつぶやくと、霞はそのまま前を向いたまま囁いた。
「慣れてるくらいじゃないと任務はできない」
会場内には、甘い香りと、白いスーツを着たスタッフたちの気配が満ちていた。講義が一区切りついたところで、瞑想タイムに入る。照明がさらに落とされ、音楽が静かに変わった。
隼斗は、目を閉じるふりをして周囲の気配を探った。空調の音、誰かの小さな咳払い、スタッフの足音。
その時、霞がかすかに指先で彼の手を叩いた。
「警戒しすぎ。普通の恋人なら、もっとリラックスしてる時間よ」
「俺の普通は、もうだいぶ昔に置いてきたんだよ」
そう返すと、霞が小さく笑った。
「ふふ、そういうところも、可愛いけど」
隼斗は無言のまま目を閉じ続けた。
この場所には、確かに「穏やかさ」があった。だが、それは「異様なまでの整いすぎた穏やかさ」だった。本当の顔は、まだこの奥にある――
そんな確信だけが、隼斗の中で静かに濃くなっていった。




