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「イハラの過去」

 イハラは訓練で和大に会った。彼は和大より6歳年上の医者だった。


 イハラがTNTに加入したのは、偶然――いや、運命だったのかもしれない。当時のイハラは研修医になったばかりで、慌ただしい毎日に追われていた。


 その日、ナースステーションの内線が鳴ったとき、彼は妙な胸騒ぎを覚えた。


「はい、救急外来です。ええ、了解しました。受け入れ1名、え? 護送付き? わかりました。医師に伝えます」


 ベテランの看護師が受話器を置き、険しい顔でイハラを見る。


「先生、ちょっとやっかいなのが来ます。刑務官付き」

「ということは、受刑者?」

 イハラは小さく息を吐く。医療刑務所だけでは対応できない患者を診る事は、今までにもあった。


「持病が悪化して、刑務所じゃ対応できなかったんですって」


 しばらくすると、救急車のサイレンが近づき、外来の玄関に横付けされた。降りてきたのは、ストレッチャーに横たわる患者と、左右を固める刑務官。


 診察室でバイタルサインを取りながら、イハラは患者の顔に目をやった。

 顔を見て、一瞬、思考が止まった。

 その顔――新聞で、裁判報道で――何度も目に焼きついた、あの男だった。


「まさか」


 言葉が漏れた瞬間、男の目がこちらを見た。どこか薄笑いを浮かべながら、こう言った。


「へぇ、先生若いな。よろしく。俺って結構、有名人なんだぜ」


 イハラの手が震えた。聴診器を取り落としそうになる。呼吸は乱れ、鼓動が嫌なリズムを刻んでいた。

 看護師が小声で尋ねた。


「先生、大丈夫?」


 イハラはかろうじて笑みを作り、首を横に振る。


「問題ないよ。とりあえず、点滴と血液検査を……」


 だが、その声には明らかに震えが混じっていた。


 イハラが医者を志したきっかけ。それは、中学時代に起きた彼女の死だった。


 彼女とは幼馴染だった。親同士も顔なじみで、幼いころから一緒に遊び、勉強し、成績を競い合っていた。高校に進学したら一緒に医者を目指そう、と語り合った日々は、今でも鮮明に思い出せる。

 彼女は―――イハラの初恋の人でもあった。


 だが、ある日突然、彼女は命を奪われた。見知らぬ男に襲われ、あっけなく、残酷に。

 男は逮捕されたが、裁判ののち、短い刑期を言い渡されていた。なぜ、あんなことを起こした人間が、一般社会に戻ってこられるのか。イハラはその答えを探し続けてきた。


 その男が、今、自分の患者として目の前にいる。


 白いシーツに包まれ、清潔に整えられた病室で、三食きちんと病院食をたいらげていた。一方、付き添っていた刑務官は床にマットを敷いて寝泊まりし、疲れ切った顔で言った。


「これでは、どちらが受刑者かわかりませんね……」


 イハラはその言葉に苦笑いを返すしかなかった。冗談にしては、あまりにも現実が滑稽すぎた。男はよく眠り、看護師に冗談を飛ばし、わがままを言えばイハラを呼びつけた。


 ある日、看護師との会話が耳に入った。


「俺、人を殺したことがあるんだぞ。すげえだろ? あれはかわいい女子中学生だったな」


 ――何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


 イハラの脳裏に、遺影の中の笑顔が浮かぶ。悲しみに暮れ憔悴しきった彼女の家族、肩を寄せ合い泣いていた同級生達の顔、どうしてと泣き崩れた人たち……あの葬儀の日の悲しみ、憎しみ、怒りが次々に蘇って来た。


 なぜ、この男がのうのうと生きている?

 なぜ、無垢な彼女が死なねばならなかった?

 答えなど出るはずもなかった。いや、出せるはずがない。


 もしかしたら、自分がこの男を殺せば――あの日、救えなかった何かを取り戻せるのではないか。彼女は、復讐を望んでいるだろうか? いや、きっと違う。

 彼女は命を救う医者になると言っていた。こんなこと、望むはずがない。けれど、それでも……この怒りを、憎しみを、どうすればいい?


「彼女や皆のためじゃない。これは、俺自身のためだ」


 イハラはそう思い至った。復讐ではない。ただ、自分を許すために、あの男を殺す。


 その夜だった。見慣れない顔の刑務官が、彼に声をかけてきた。


「大丈夫ですよ、先生。あの男はじきに死にます」

「は?」

「先生は、あの男を殺そうとしていましたね?」


 突然の指摘に、イハラは全身を強張らせた。

「なぜ、私の……」


「先生の様子、少し前から変でしたからね。調べさせてもらいました。先生のご友人の件はお気の毒でした」

 男は淡々と語る。

「ですが、あなたは医者です。人の命を救う立場にある。殺すのは、あなたの仕事じゃない」


「誰なんですか、あなたは」


「知らない方が、いいですよ。今の会話も、私の存在も、先生がしようとしたことも……すべて、忘れてください」


「無理です。教えてください。どうしてあなたが、あの男を?」


「先生が、こちら側の人間でない以上、それは話せません」


「……こちら側?」

 イハラの声は震えていたが、ここまで聞いて後には引けなかった。

「誰にも言いません。こんな話、誰にも言えませんよ。言えば、私があの男を殺そうとした話をしなければならないんですから。だから、教えてください。納得できれば、この計画をやめます」


 しばらく沈黙が続いた後、その男は静かに口を開いた。


「私たちは、とある所から依頼を受けて動いている特殊機関の者です」


「……特殊機関?」


「ええ。あの男は反省などしていない。数年後、社会復帰すれば、今度は小学生を狙うとまで言っています。先生のご友人だけではありません、他にも何人も被害者がいます。命は助かっても、今も心の傷に苦しむ人がいます。そうした情報と証拠をもとに、あの男は『生かす価値なし』と判断されました」


 男は目を細め、静かに続けた。


「退院後、正式に処理します。先生に迷惑はかかりません。ただ、黙っていてください。誰にも口外しないこと。これだけを守ってください」


 イハラはしばらく黙っていたが、やがて絞り出すように口を開いた。


「……私にも、何か手伝わせてもらえませんか?」


 男の目がわずかに見開かれる。


「仮に先生があの男を殺したとして、貴方は人を殺した罪悪感を一生背負えますか? きっと様々な感情だけが残るだけです。あなたはただ黙って医者としての仕事を続けていればいいんですよ」


 穏やかな声だった。だが、イハラは引き下がらなかった。


「私は、何の落ち度もない人がある日突然、惨たらしい事件に巻き込まれるのを何度も見てきました。凌辱され、暴行され、一生苦しみ続ける人も。逮捕されても、反省もせず、同じ罪を繰り返す者も」


 イハラはゆっくりと男を見据えた。


「あの男のことは、あなたに任せます。でも、私もこの国のために、何かできるなら」


 その日、イハラは医者としての道の延長線上に、新たな使命を見た。


 ――こうして、イハラはTNTに加入した。


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