「あどけなさの輪郭」
昼下がり。
珍しく静かな居間で、イハラは湯呑を片手に新聞をめくっていた。だが、眉をひそめて、ふと呟く。
「……あれは、さすがに言い過ぎだ。隼斗」
自分に言い聞かせるような独り言だったが、それを耳にした政悟がそっと反応した。
クッションを抱えて、静かに隣に座る。
「イハラさん、すみません。いつも隼斗が出しゃばって……僕から注意しておきます」
真っ直ぐな謝罪に、イハラは少しだけたじろいだ。そして、ぽつりと本音がこぼれる。
「いや。政悟が謝ることじゃないよ。最初の訓練の時にね、和大にはずいぶん助けられたんだ。色々あって、この人と一緒にやっていきたいなと思った。私は、和大の下についた。班長は二人もいらないって思ってね」
政悟は一瞬、視線を落とした。
「京都で、何かあったんですか?」
「さては、シンイチに何か吹き込まれたな?」
「……ええ、まぁ」
気まずそうに髪をかきながら、政悟が苦笑する。
「たいしたことじゃないよ。政悟に気を使わせて悪かった。私は隼斗の悪口を言いたかったわけじゃないんだ」
「分かってます」
政悟の穏やかな返事に、イハラはふと微笑んだ。
「政悟は大人だな」
「少なくとも、隼斗よりは大人だと思います」
言ってから、政悟は小さく笑った。
「それにしても、きみの判断力や行動力には驚かされる」
「言われた通りに動いてるだけですよ。褒められるようなことじゃ……」
その声には、照れよりも、自分を信じきれない響きがあった。
「ちゃんと学校には行けてるか? 今年、受験だろ。勉強はどうだ?」
「行ってますよ。たぶん、どこかには受かると思います。高望みしなければ」
「よかったら、教えてあげようか。中学生の勉強くらいなら、まだ分かるよ」
「本当ですか?」
一瞬だけ、政悟の顔がぱっと明るくなる。その変化に、イハラはわずかに目を細めた。
「実はちょっと困ってたんです。シンイチさんに聞いても『いや〜俺も分からん』って笑ってごまかすし、和兄さんは仕事で忙しそうだし、隼斗は勉強が苦手で、運と勘でなんとかしてきた人なので……」
「隼斗は運と勘か、確かにそうかもな」
イハラは小さく吹き出す。
「でも、八真人がいるだろう? 彼なら年も近いし、頭もいい」
「イチくんに教えてもらうのは、ちょっと……癪に障るんです。なんか負けた気がするんですよね。頭よさそうだし」
政悟は少し目を伏せ、正直に言った。
「それは分かる気がするよ」
イハラが穏やかに笑った。
「じゃあ、今度テキストでも持っておいで」
「ありがとうございます!」
政悟の顔に浮かんだ笑顔は、年相応の、あどけなさを残すものだった。
任務の時には見せない、その表情にイハラは思わず目を奪われる。
(ああ、そうか)
イハラは胸の奥で思った。
この少年は、誰よりも冷静で、誰よりもよく周囲を見ている。
けれど――無理をして、大人のように振る舞っているだけなのかもしれない。
彼はまだ子供なのだ。
「じゃあ、二階で勉強してきます。分からないところがあったらお願いしますね」
明るくそう言って立ち上がる政悟の背中には、ほんの少しだけあどけなさが見えた。
イハラは湯呑を手に、その背を穏やかなまなざしで見送っていた。
ふいに、心の奥に沈んでいた古い記憶が、静かに浮かび上がってくる。イハラはそっと目を伏せた。湯呑の中の茶が、すっかり冷めているのに気づいて、小さくため息をつく。
テーブルにそれを戻すと、自然と、あの頃のことが思い返された。




