「裏切りの果て」
任務決行日の朝。
「……なんで僕は、今日の任務に行けないんですか?」
制服姿の政悟が、口を尖らせて抗議した。
「お前、今日は中学校の三者面談だろうが。和兄だけが先生と話してどうすんだよ。お前がちゃんと話さなきゃ意味ねぇだろ。受験生なんだから、この先の進路とか将来とか、ちゃんと考えろ。……って先生も言うだろうしな」
隼斗は靴を履きながら答える。目線は合わせない。
「別に、話すことなんか……。僕、このままTNTでやっていくつもりだし」
政悟はむくれたまま言い返す。
「イハラだって今日は診なきゃいけない患者がいて行けないんだ。お前だけじゃねぇ」
「でも、イチくんとシンイチさんは行くんですよね? 僕だけ置いてかれるのって、なんだか嫌です」
政悟がしつこく食い下がる。
「うるせぇよ。学校はお前のためのもんだ。しっかり行ってこい」
そう言ってから、隼斗は玄関のドアを開け、背中を押すように政悟を玄関から追い出した。
「……ほら、行け。遅刻すんなよ。和兄も時間になったら行くからな」
静かに扉が閉まり、家の中に沈黙が戻る。
「……隼斗、わざと今日にしただろ?」
廊下の向こうからシンイチの声。
「はあ? するわけねぇだろ」
そう言う隼斗の横顔はどこか曇って見えた。
そのやり取りを、八真人は黙って聞いていた。
車内には、エアコンの微かな音とタイヤの振動だけが響いていた。
「今回の対象、南雲誠四郎。隼斗、打ち合わせの時に知っているような顔してたよな?」
シンイチが前を向いたまま聞いた。
「ああ。最初に交番で実習勤務してたときの先輩だよ」
隼斗は短く返した。
「対象者には妻と、小学校に通う双子の娘がいます。彼は数年前に警察官を辞めて、民間の防犯コンサルをしているようです」
後部座席の八真人が資料を見ながら続ける。
「どうやらTNTの任務を放棄して、家族を連れて国外に移住しようとしています」
「それも……証拠を持ち出したままだろ?」
シンイチが、わずかにハンドルを強く握って言う。
「証拠って、どの程度だ?」
隼斗が声を出した。硬い声だった。
「正確には分かりません。だけど、TNTの内部資料のコピーが複数あるようです。移住先から世界中にTNTの存在を暴露するつもりかと。持ち出した資料は、彼が借りているレンタルルームにあります。あと、銃器類も持ったままです」
八真人の声は、冷静だった。
「……悪い人じゃなかったんだけどな」
隼斗がぽつりと漏らす。
「善人でも、裏切者だ。これは──ただの脱退じゃ済まない」
シンイチの声には、割り切った冷たさが滲んでいた。
沈黙が落ちる。
しばし前を見据えていた隼斗が、静かに口を開いた。
「証拠の回収は、別の班がやる。俺たちの仕事は排除だ、現地で接触した際、即時排除に移る。それでいいか?」
『了解』
シンイチと八真人の声が重なる。
排除──それはつまり、「殺す」ことを意味していた。
人気のない山道を登り切った先に、廃墟同然の建物がぽつりと佇んでいた。
かつては避暑用の別荘だったのか、外壁はところどころ崩れ、蔦がからみついている。窓は割れ、玄関の扉も片側が外れかけていた。
南雲誠四郎がここに入ったのは3日前。尾行に気づいたあと、彼は携帯を捨て、知人名義で借りていたこの別荘跡に潜伏した。家族と連絡は取らず、通信も絶ち、完全に姿を消した。
出国の予定は明日。空港近くの場所で、妻と娘たちと合流するはずだった。
別荘の裏手に、エンジンを切った車がひっそりと停まる。
運転席のシンイチが、静かに低く呟いた。
「現地到着。八真人、本部からの連絡は?」
「対象はまだ建物内にいます。外部との通信履歴はなし。武装は確認できていませんが、銃器類は所持していると見て良いでしょう」
「別班は?」
隼斗が問いかける。
「家族との接触ルートを押さえるため、空港近辺で動いています。レンタルルームにあった資料も回収済み。排除対象は一名、南雲のみ。ここにいるのは俺たちだけです」
八真人の声は冷静だった。
「了解」
シンイチが静かに頷いた。
助手席の隼斗はふいに腰のホルスターから覆面を取り出すと、それを見つめたまま口を開いた。
「……覆面はしない」
二人がわずかに動いた。
「あの人には、匿名の誰かじゃなくて俺が命を奪ったと教えたい。最期を見届けた人間がいるって、残してやりたい」
シンイチは一拍の沈黙の後、前を向いたまま答えた。
「……了解。判断は任せる」
マスクを脇に置き、隼斗はゆっくりと車を降りた。
薄曇りの空の下、森の中にある廃屋へと、三人は音もなく近づいていく。
命を奪うために。過去を断ち切るために。
錆びた扉が、重く軋んで開いた。
ほこりと湿気のこもった空気。
中央には、簡易ベッドとボストンバッグが一つ。
その横に、南雲誠四郎が座っていた。薄暗がりの中、銃を持たず、両手を膝に置いている。
彼の視線がゆっくりと、先頭の隼斗に向けられた。
「……お前……もしかして保内か? 保内隼斗」
静寂が満ちる。
隼斗は何も言わず、一歩だけ前に出た。
「誰かが殺しに来るとは思ってた。……けど、まさかお前がTNTに入っていたとはな」
南雲はかすかに笑った。苦味と後悔の滲んだ、大人の笑いだった。
「俺は、ただ普通に生きたかっただけなんだ。家族と一緒に、まっとうに。裏の仕事を続けるのも、家族に嘘をつき続けるのも、もう無理だった」
南雲は、ボストンバッグに視線を落とす。
「でもな、TNTを抜けるだけじゃ意味がない。……この組織は、他の誰かを潰す。俺が消えても、また誰かが泣く。だったらいっそ、暴いてやろうと思った」
彼は、ゆっくりと隼斗たちを見渡した。
「保内はまだ独身か?」
答えない隼斗の代わりに、シンイチが前に出る。
「時間がない。言い残すことがあるなら、今のうちに言え」
「……あんたたちには妻も子どももいないのか?」
南雲は真正面からシンイチを見据えた。
「こんなことをして、家族に対してなんとも思わないのか? 思わないふりをしてるだけだろ。いずれ後悔するぞ。俺みたいにな。ここに入ったことを──」
「黙ってることも、傷つけることも、とうに覚悟してる」
シンイチの声は冷たく、揺らぎがなかった。
「覚悟ねぇ。それで、お前たちは正しいとでも?」
南雲は口を歪めてかすかに笑った。そこで隼斗が、ようやく口を開いた。
「正しさなんて知らない。ただ、ルールを守る。それがTNTの掟だ」
南雲の目が、一瞬だけ細められる。
「やっぱり、お前はそういう奴だったな。情より任務を選ぶ。それでも、俺の最期を見届けに来てくれたのか?」
今の隼斗には、かつての先輩にかける言葉など、もう残っていなかった。
答えず、彼は静かに歩を進める。
パン、と乾いた音。
火花が閃き、南雲の額に穴が開く。彼はそのまま、ゆっくりと後ろへ倒れ込むように崩れる。苦しむ暇などなかった。意識が闇に落ちるよりも早く、命は終わっていた。
隼斗は目を逸らさなかった。彼は黙ったまま、床に倒れたかつての先輩を見下ろす。
「確認。排除完了」
八真人が淡々と後方で告げた。
隼斗は、崩れた遺体をしばらく見つめたのち、その場を離れた。




