「兄の断章」
任務の話し合いを終え、イハラ、シンイチ、八真人はそれぞれ帰路についた。
古い二階建ての家には、兄弟三人だけが残されている。
夕食も済み、時計の針が9時を回った頃。
「……和兄は、相変わらず甘いな」
隼斗が低く切り出した。少しだけ怒気を含んだ声音だった。
「俺たちみたいな組織じゃ、上官の甘さは致命傷になる。和兄はいつも非情になれない。もっと部下を駒として見るべきだ。さもないと、いつか寝首をかかれるぞ。俺や政悟だって、必要とあらば見捨てろ」
和大は静かにその言葉を受け止め、口元だけで笑った。
「お前たちを見捨てるなんて、できるわけないだろ」
柔らかな声だった。
「だいたい、俺の甘さは隼斗がカバーしてくれるって思ってるからさ」
その言葉に、隼斗は大きくため息をついた。
「だからそれが甘いって言ってるんだ。俺をあてにするなよ」
ぶっきらぼうだが、そこに兄を思う気持ちは滲んでいた。
「まぁまぁ、そこが和兄さんのいいところでしょう」
政悟が口を挟んできた。足を畳に投げ出してぶらぶらと揺らしながら涼しい顔をしている。
「隼斗が冷酷すぎるんですよ。ほんと、人の心ってものがないですよね」
「お前にだけは言われたくねぇよ。あのさ、前から思ってたけど、なんで俺だけ呼び捨てなんだ?」
隼斗は政悟を睨む。
確かに政悟は、「シンイチさん」「イハラさん」「イチくん」と、他の班員には敬称をつけているのだ。
「……あ、僕、宿題がありました。じゃ、失礼します」
言うが早いか、政悟はそそくさと立ち上がり、二階の自室へ逃げ込んでしまった。
廊下を踏みしめる足音が、どこか軽やかだった。
「ったく……」
隼斗が呆れたように吐き出す。
「でも、本当に和兄はお人好しだよ」
「違うな。お人好しなんかじゃない」
和大はちゃぶ台に肘をつき、ゆっくりと話し出した。
「隼斗、お前は俺を買いかぶりすぎてる。だいたいお人好しの人間がTNTの班長なんてしないだろ?」
言葉の端に、どこか自嘲めいた色が混じる。
少しの沈黙のあと、和大はぽつりとこぼした。
「……俺はな、親父の顔をなんとなく覚えてるんだ」
不意に語られるその言葉に、隼斗は息を止めた。
「父さんじゃない、俺の本当の親父だ」
和大の実父は、彼が5歳の頃に失踪した。
その男は、優しい人だったという。
困っている人を見れば黙っていられず、誰にでも手を差し伸べていた。
その優しさは多くの人に好かれる一方、しばしば利用された。
「連帯保証人って、意味もよくわからないまま書類に判を押したらしいよ。知人に頼まれて断れなかったんだって」
そして、ある日突然、その知人は姿を消した。
残されたのは借金と、家族だけだった。
「『和大を頼む。家族には迷惑をかけたくない』って置き手紙を残して、親父は消えたよ」
和大の声が、少しだけ震えていた。
「警察に届けは出した。でも、事件性がないって理由で積極的には探されなかった。結局、あの人は二度と帰ってこなかった」
母はその後、懸命に働き、再婚した。
再婚相手――隼斗の父は、和大にとって「二番目の父」だった。
「父さんも、人を救おうとして死んだ。犯人を諭そうとして、逆に殺された。二人ともさ、人を信じた結果がそれだよ。俺は、理不尽だと思う。でも、そういう世の中だってことも、分かってる」
和大はふっと目を伏せる。
「俺が警察官になったところで、救えない人間はいくらでもいる。法律の外にこぼれ落ちる人たちは、民事不介入って言葉ひとつで、切り捨てられていく」
静かな語りは、どこか決意に満ちていた。
「だから俺は、お前たちには苦労させたくなかった。それだけだったんだよ。どんな仕事でもやるって、そう決めたのに――結局、お前らもここにいるんだもんなぁ」
和大は苦笑した。けれどその目は、どこまでも優しかった。
和大には愛されて育った記憶がある。
家族旅行。笑い声の絶えなかった食卓。
母が再婚してからの8年間――和大の記憶には、確かに「家族」があった。
だが、弟たちは違った。
政悟は物心ついた頃にはすでに母が病床に伏していた。
隼斗にも、父との記憶はそう多くない。
だからこそ、和大は愛情をかけたかった。
与えられなかった分まで、兄として。
――それなのに。
「見せたことあったっけ、親父の写真」
和大はポケットから古びた写真を取り出した。少し黄ばんだ小さな写真には笑顔の男が写っていた。
「親父、左頬に火傷の跡があってな。笑うと右の口元に小さなえくぼができるんだ」
背が高く、肩幅が広い。整った顔ではないが、どこか柔らかな雰囲気があった。
「似てないってよく言われるけど、俺は、雰囲気は似てると思うんだけどな」
写真を受け取った隼斗は、黙ってそれを見つめた。
それが兄の出発点だったことを、少しだけ理解した気がした。




