「境界の空」
「隼斗はカズ兄さんより甘いかもしれませんね」
「何か言ったか?」
「いいえ、独り言です。あ、もうじき朝ですよ」
政悟の視線の先では、東の空がわずかに色づきはじめていた。
夜の帳が薄くなり、濃紺から群青、そしてかすかな白へと変わっていく。
長くて冷たい一夜が、ようやく終わろうとしていた。
「宵と暁って違うんですよね。この前イハラさんが教えてくれました。隼斗はどっちの空が好きですか?」
夜明け前の風が、ふたりの間をすり抜けていった。隼斗は弟の横顔に目をやり、少しだけ息を吐いて口を開いた。
「おかしなコト聞くんじゃねぇよ。そんなもの変わらないだろうが。だいたい、イハラはいつも細かいこと言うよな。お前、あいつと話してて楽しいか?」
「楽しいですよ。イハラさんって博識で、いろいろと教えてくれるし。あ、もしかして、隼斗は宵と暁の違いが分からないんですか?」
政悟は少しだけ口元を緩めたが、笑っているわけではなかった。遠くで鳥の声がひとつ、夜明けを告げるように響く。
「そんなわけないだろ。ええと、そうだ、俺が好きなのはこんな空だ。ほら、東の空が白みはじめているだろ。そしてあっという間に明るくなる。次第に明るくなる空を見ながら、昇ってくる太陽に望みをかける。俺の人生もきっと明るくなるだろう、ってな」
「へぇ、隼斗らしいですね。僕は、宵です。昼間の喧騒が過ぎ、じきに訪れる漆黒の闇に思いを馳せる時間が好きなんです。もしかしたら月が出ているかもしれない。星が見えるかもしれない。いや、何も見えなくてもそこには『何か』がある。なんて考えるんです」
「お前、変だぞ。いきなりどうした?」
隼斗は眉をひそめながらも、どこかで政悟の言葉に引っかかっていた。ふだんの任務なら気にしないはずの違和感が、今回だけは消えない。
「相手が武器も待たない無抵抗な人間だときついですね。それも、ほとんどが子供だったし」
政悟の言う通りだった。
今回の相手は武器も持たない、それも政悟とさほど変わらない子供が多くいた。いつもは無表情な政悟が少しだけナーバスになっている―――そう隼人は思った。
様々な任務をこなすにつれて、政悟は人を殺すことに慣れてきたように見えたが、そうではなかった。政悟の中では、悪とされる人間をのみを殺しているつもりだったのだ。
「ああ、二人ともここにいたのか。早くここから離れろってさ。さぁ、帰るぞ」
シンイチが足音を忍ばせて近づきながら、いつもの軽い口調で声をかけてきた。けれど、その顔には笑みがなく、声色もどこか沈んでいた。
「死体を数えた時に、子供が二人足りなかったらしいな。海にでも落ちたのか」
静まり返った空気が、ほかの班員の言葉をやけにくっきりと響かせる。
「どうやって海まで行ったんだよ。逃がした奴がいたのか?」
誰ともなく、呟きが漏れる。
「だいたい、あいつらは何者だったんだ?」
会話というよりは、自分たちに言い聞かせるように――。
「誰かが子供を逃がしたのか。まぁ、俺達には関係ない話だな。絶対に躊躇しない隼斗と、班の中で一番腕のいい政悟が仕留め損ねることはないから」
皮肉にも聞こえるその言葉に、風が吹いた。葉が擦れる音が、微かに耳を撫でる。
「ええ、そうですね」
隼斗が答えるよりも早く、政悟が淡々と応じた。けれどその声には、どこか乾いた響きがあった。
「でも、どうして子供まで殺さなきゃいけないんだ」
シンイチが、ぽつりとこぼす。誰にともなく、ただ虚空に投げかけるように。
「俺たちは……何をやっているんだろうな」
その問いに、隼斗も政悟も、何も言わなかった。
沈黙が重く降り積もる。ただ遠く、カラスの鳴き声がひとつ、夜の帳に吸い込まれていった。
「今回のことは絶対に喋るな。同じ班の仲間にも、だ」
任務終了の報告の前、繰り返し何度も念を押された言葉が、耳にこびりついて離れない。
まるで真実というものに鍵をかけるように。記憶ごと、封じ込めるように。
――――――――――――
「三人ともご苦労だったな」
家に戻った後、和大がねぎらいの声をかけた。
その声は、いつものように朗らかだったが、三人の顔には疲れのような、何か言い知れぬものが滲んでいた。
「和兄さんは、宵と暁、どっちが好きですか?」
不意に、政悟が口を開いた。
その声は静かだったが、どこか熱を含んでいた。
「宵と暁? そうだなぁ……俺は、どんな空も好きだよ」
和大は少し考えるように天井を仰いで、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「灰色の雨雲に覆われた空も、入道雲がもくもくと広がる夏の空も、月の照らす夜空も、宵も、暁も。どれも必要なものだ。色々な人間がいるように、どんな空だって、ちゃんと意味がある。必要なものさ」
その言葉を聞いた政悟は、ほんのわずかに唇の端を持ち上げた。
「和兄さんらしい答えですね」
政悟の目が、ふと窓の外に向く。
そこには、夜と朝のあいだ――まだ青とも白ともつかない、あの淡い空が広がっていた。
宵と暁、そのはざま。
そこに、今の自分たちがいるような気がした。




