「弟の初陣」
深夜。
とある都市の廃ビル。その中に、微かな足音だけが響いていた。
全身黒ずくめの服に身を包み、バラクラバを外した男が、低く冷たい声を放つ。
「こっちは終わった。って、おい、シンイチ。政悟はどこだ。一人にするなって言っただろ」
顔を晒した男、保内隼斗。21歳。黒髪でつり上がった眉、三白眼。その厳めしい顔は、初対面の人間を黙らせるほどだった。
「この先だよ。俺は止めたんだけどな。勝手に飛び出して行ったんだ」
名を呼ばれたシンイチは、肩をすくめ、奥を指さした。
彼もまた黒装束に拳銃を手にしている。
シンイチは隼斗より5歳年上。だが、隼斗には年齢など関係なかった。
彼は返事もせず不機嫌なまま歩を進めた。
「せめて、返事くらいしろよ」
背後でシンイチが苦笑する。応じる声はない。
しばらくして、鼻を突く匂いが隼斗の足を止めさせた。視線を落とすと、血塗れの遺体が転がっている。頭部を含め、全身から無惨に血を流していた。
判別可能な顔を見て、対象者であることを確認する。
「あいつ、無駄に撃ちやがって」
隼斗は舌打ちした。
興奮していたのだろう。政悟はまだ未成年だ。
初任務。誰よりも訓練を重ねた人間でも、現場で心を乱さずにいられるわけがない。
やはり──俺が傍にいるべきだった。
今回の対象者は二人の男。
特に武装しているわけでもなければ、屈強な肉体の持ち主でもない。外見はごく普通の一般市民。与えられた任務は、確実に殺すこと。任務に失敗は許されない。瀕死も逃亡も、絶対に許されなかった。必ず自分たちの手で葬らなければいけない。
それでも、ここまでやる必要があったのか。相手は武器を持たない人間なのだ。
恐怖で身をすくめる男を、まだ10代のあいつが撃ち抜いた――その現実が、隼斗の胸を鈍く叩いた。胸の奥に、微かな疑念が湧き上がった。
少し先。
覆面を外した政悟が、拳銃を持ったまま立ち尽くしていた。
隼斗は近づき、背後から声をかける。
「政悟、終わったか」
呼ばれた男は、ゆっくりと振り返った。
薄茶色の髪と白い肌に、鮮やかな血飛沫が散っている。
隼斗を視界に捉えた政悟は、冷静に言った。
「ああ、隼斗ですか。片付きましたよ。さっきの死体、ちゃんと確認しました?」
「お前、大丈夫か?」
幼さを残す顔にこびりついた返り血。黒い服装が、肌の白さを際立たせる。
忌々しそうに見つめる隼斗を、政悟は小首を傾げて見上げた。
「大丈夫って、何がですか? これが僕たちの『仕事』でしょう?」
その無垢な声に、隼斗はかすかに目を細めた。
この少年は──この世界に、確かに染まっていた。
「ったく、無駄弾撃つな。お前、死んだ後にも撃っただろ。次からは一発で仕留めろ。それと、任務中は覆面を外すな。髪に血がついてるぞ。それに、シンイチを置いて先に行ったらしいじゃないか。いいか、俺たちはチームなんだ、指示に従え」
早口で畳みかける隼斗に、政悟はぱちぱちと瞬きした。
「すみません。でも、どうしてもやりたかったんです。僕の初任務だから」
政悟は静かに、だが熱を込めて続けた。
「それに顔を見せた方が油断すると思ったので、覆面は外しました。実際に僕を見て油断しましたよ。だいたい──あいつらが、何をしたか知っています? あの子たち……被害者は今も普通に暮らせない。癒えない傷を抱えたまま、ずっと苦しんでいる」
その声は、冷たい憎しみに満ちていた。
「お前、どこまで知ってる?」
政悟には対象者について何も教えていなかった。手を下すのは、自分たちだと決めていたからだ。
「写真で対象者の顔を見たときに、思い出したんです。昔、ニュースで見た事件の犯人だって。被害者は小学生でした。それも一人じゃない。あいつらは、子供を油断させて連れ去り、酷い暴行を……。それなのに、示談だの、不起訴だの、執行猶予だのと、ろくに罰も受けずに同じことを繰り返した。あいつらにとっては一瞬の快楽であっても、被害者は一生苦しむんですよ。今回だって、同じ性癖の仲間を募るSNSで連絡を取り合って、犯行を計画していた。だから──一発じゃ足りなかった。被害者の数だけ弾を打ち込みたかった。あいつらが何をしたか――僕はすべて知っています」
政悟の目が、闇の中で細く光った。
「隼斗たちはいつも忙しかったでしょう? 僕は小学生のころ、気になるニュースを見つけると、犯人について調べていました。それに、こんな奴らは、まだ世の中にたくさん存在しているんですよ」
隼斗は目を伏せ、短く息を吐いた。
「全く……。そんなことばっかり覚えてやがって」
ぽつりと、隼斗が言った。
──隼斗と政悟。
ふたりは血を分けた兄弟だ。
この国の闇の中で、彼らはそれぞれの正義を握りしめていた。