「信頼の兆し」
さすがに三日目ともなると、二人とも疲労の色が濃くなってきた。
「やっと終わる……」
「それにしても元気なじいさんだな」
事実、対象者は神社、仏閣、観光地という観光地や、気になったところを次々に巡っている。
今日も政悟と八真人は制服姿で京都も町に溶け込んでいた。ただの学生にしか見えない少年二人が、国の平和を守ると称して血に塗れているなんて誰も思わないだろう。
ファーストフード店の入り口には学生たちがたむろしている。政悟はその雑踏のなか、紙コップに入ったコーラを手に立っていた。
「……で、京都まで来て、本当にここに来たかったのかよ。ハンバーガーなら、日本じゃなくても食えるだろ」
八真人の言葉に政悟は無表情のまま小さくうなずいた。二人の視線の先には、初老の男、対象者がいた。
二人は今日も学生たちに紛れて護衛する。狙われているという明確な情報はなかった。しかし、昨日は怪しい男を一人取り押さえた。やはり、命は狙われているらしい。だが、決して表には出さない。だからこそ、何かあっても事故として処理できる者が、現場には必要だった。
政悟は、もう一度、対象者を目で追った。男はにこやかに、ポテトを口に運びながら学生たちに囲まれている。
「あのじいさん、まだポテト食ってるな。全く笑ってる場合じゃないだろ、こんな人混みで何かあったらどうするんだよ」
八真人がぼやいた次の瞬間だった。建物の上階──開け放たれた非常階段の影から、何かが閃いた。反射的に政悟の身体が動いた。
「危ない!」
男の肩を押し倒すと同時に、風を裂いて金属音が耳を刺した。音もなく投擲された小さな金属片がすぐ隣の柱に突き刺さる。一瞬の出来事は、周囲の喧騒に紛れて消えた。
「11時方向。隼斗さん、任せます」
八真人が短く告げた。彼はすでに政悟の背後に立っている。手の内に仕込んだ通信機から応答が返ってきた。
『了解 上階へ回り込む。犯人の確保はこっちに任せろ。お前たちは引き続き対象者の保護』
そこからは早かった。異変に気づいた人が政悟たちを見たが、事件はすでに収束に向かっていた。政悟たちの動きはあくまで自然で、周囲には二人の高校生がふざけて遊んでいる程度にしか映らない。
「すみません。ぶつかっちゃって」
政悟が唖然としている対象者に詫びた。
「Did you just say it's dangerous?」
(さっき、危ないって言った?)
「No. I was messing around with my friends. Sorry」
(いいえ、友達とふざけていて。すみません)
後日、事件は「近隣ビルでの設備故障による破片落下」として処理された。犯人は「他の容疑」で身柄を確保されたとだけ記録に残っている。
繁華街は、夕暮れが近づくにつれて熱気を帯び始めていた。
「……そろそろ帰りたいな。ったく呑気なもんだよね」
政悟がつぶやく。対象者は、駅前のゲームセンターに入っていった。政悟と八真人も、制服姿のまま後を追う。
「ゲームセンターかぁ……この流れで来るとは思ってたけどさ」
「人が多く、カメラも雑然。死角も多い。潜伏には適している」
「いや、それは護る側の台詞じゃないよね」
政悟は苦笑しながら、ポケットから財布を出して小銭の両替を始めた。対象者の監視は続けつつ、自然に行動するため、いくつかのゲームの前でに足を止める。
「ねぇ、イチくん。音ゲーってやったことある?」
「ない。騒音が多すぎて判断に支障が出る」
「じゃ、教えてあげる。……息抜きも任務のうちだよ」
政悟が笑いながらプレイを始める。軽快なリズムに合わせて手を動かす姿は、周囲の高校生たちと何ら変わらない。だがその視線は、絶えず鏡越しにターゲットの位置を確認していた。
「目線だけで三方向の確認してる。器用なやつだな」
八真人は思わずつぶやいた。
そのときだった。クレーンゲームコーナーの裏手で、ひとつの影が不自然に揺れた。
「政悟、10時方向、接近者あり。行くぞ」
「了解。こっちで気を引く。イチくんは後ろに回り込んで」
政悟はプレイを途中でやめると、わざとらしく対象者の近くへと歩いた。笑い声、アナウンス、BGMが空間を満たすなか、動き出した不審者の手を──
「動くな。このまま騒がずに出口へ行け」
低く抑えた声で、不審者の背後に回った八真人が男の肩口にナイフをあてがっていた。
「まいったなぁ。学校さぼってるの、先生に見つかったよ。これって、反省文ですかぁ」
政悟がわざとらしく大きな声を上げる。不審者と学生二人、あくまでも教師に補導されたように装いながらゲームセンターを後にした。
不審者を隼斗と和大に引き渡して、二人は来た道を戻る。
『お疲れ、対象者は無事に京都駅に着いた。この先は、他のTNT班が警護するらしい。解散だ』
イハラからの連絡に、二人はほっとした顔で同時に息を吐いた。
「僕のリズムセンス良かったでしょ?」
「まぁリズムは合ってた。最後まで警戒は解かなかった。それだけで十分だ」
「それだけ、ね。はいはい」
会話は、喧騒に紛れてすぐに消える。
二人はまだ夕方の光が残る駅ビルの中に戻っていた。
政悟は、ゲームセンターの隅に置かれたクレーンゲームにふらりと近づいた。
「それで、なんで戻ってきたんだ?」
背後から八真人の低い声がした。
「見てわからない? クレーンゲームをするんだよ」
クレーンゲームの中には、羽織を着た猫のぬいぐるみが並んでいる。政悟はゲーム機の操作レバーに手を伸ばした。
「任務が終わったらやりたいなって、思ってたんだ」
「ふうん」
政悟は小銭を入れた。一度目は失敗。二度目も失敗。三度目で、ようやくアームがぬいぐるみの端をつかみ、落とし口に運んだ。
「……よし」
ぬいぐるみを手に取ると、振り返って八真人に差し出した。
「はい、イチくん。記念にどうぞ」
「いらない」
即答だった。
「そう言うと思った」
政悟は小さく笑い、ぬいぐるみを持って、そのままゴミ箱の方へ歩き出した。捨てる気はなかった。ただの冗談のつもりだった。
だが、彼の手がぬいぐるみ放りかけた瞬間──
「待て」
その声に、政悟の手が止まった。
八真人がすっと近づいてきて、無言で手を取った。何も言わず、上着の中にぬいぐるみをしまいこんだ。
「なぁんだ、欲しかったら素直に言えばいいのに」
「戦利品は処分ではなく保管するんだよ」
「うん、そういうことにしとく」
政悟はそう言って、少しだけ目を細めた。
二人は並んでゲームセンターを後にした。同じ歩幅で無音の街を歩き出す。
「やっぱさ。誰かに守られてるって、気づかない方が幸せなときもあるよね」
「気づかないと、感謝もされないけどな」
「まあね。でも、僕は感謝されるために守ってるわけじゃないし」
風が二人の間を吹き抜けた。遠くで車の音がする。ふと、政悟がぽつりと言った。
「思うんだよね。対象者のおじいさん、この三日間、ずっと笑ってたじゃん。湯豆腐食べて、甘味食べて、ポテト食べて。あちこち観光して、ゲームセンターではしゃいでさ。すごく楽しそうだった。守られてたことも、狙われてたことも、たぶん全く知らないよ」
「そうだろうな」
「今回は守ったけどさ、本当に危ない時って、あんなふうに助けられないかもしれない。今日だってさ、たまたま動けただけで、あれ、もし一歩遅れてたら──」
言葉が詰まった。喉の奥に苦味が広がる。
「そのときは、俺が守る」
八真人が静かに言った。
「お前が間に合わなかったら、俺がやる。どっちも間に合わなかったら、隼斗さんや、シンイチさん、イハラさん、班長、誰かが動く。そういうもんだろ」
政悟は小さく笑ったあと、静かに目を伏せた。
「本当はさ、全部守れる気なんかしないんだ。でも、見捨てたくないんだ。あの人も、この国も、まじめに生きている人の生活も」
また風が通る。八真人はしばらく黙ってから、言った。
「俺は、それでいいと思う。政悟がそう思うのなら、それでいいと思う」
「……え?」
政悟は目を伏せたまま、笑いもしなかった。
「でも、まずはおまえが生きないと、意味がないからな」
静かに告げる八真人に、政悟は目を見張る。その声音には、どこかに確かな熱が宿っていた。
「なんか僕さ、イチくんになら背中を預けられそうな気がするよ」
政悟がぽつりと呟いた。八真人は何も言わず、ただ一度だけ、小さく頷いた。その頷きに、政悟は言葉にならない何かを感じた。
「ほら、これ」
八真人の手には和紙細工の小さな包みがあった。中には、政悟に渡そうと買っていた金平糖の詰め合わせが入っている。
「え? なに? いつの間に買ったの?」
「俺からの戦利品だ」
「あ、ありがとう」
政悟はそれをそっと受け取った。
──信頼。それは、たったひとつの命を守るこの三日間に、ようやく芽生えたものだった。
翌日、八真人の通学カバンには、羽織を着た猫のぬいぐるみがぶら下がっていた。