「六道庭の二人」
「任務内容は、要人の護衛。対象者は非公式に国内を移動予定だ」
「非公式ってどういうことだ?」
和大の言葉に隼斗が怪訝な顔をする。
「それがな、今回の対象者は某国の政財界の要人。個人資産も影響力も桁外れにあるらしい。だが本人は、SPの同行を拒否している。『日本は平和な国だろう?』の一点張りでな。表舞台にはほとんど出ず、世間に顔は知られていないので、警備はいらないと。だが、もし何かあったとき、日本の立場がかなり悪くなる」
「バカなやつだな。それだけ金を持ってたら、顔を知っている身近な奴が命を狙うだろ」
隼斗がぼそりと呟いた。隣のイハラが、無言で視線だけを向ける。注意というより、確認。発言の真意を測ろうとしている目だ。
「まったくだ。しかしそれゆえ、政悟と八真人に任務が回ってきた」
和大はわずかに肩をすくめた。
「お前たち二人の服装は揃いの制服。学生を装って自然に護衛しろってさ。行動中は常に注意を怠らないこと。隼斗とイハラが対象者の視覚に入らないように気を付けながら、後方支援に入る。俺とシンイチも現地で待機しておく」
政悟は一枚の写真を手に取った。白髪交じりの初老の男。どこにでもいそうな観光客に見えるが、その背後には国を動かす影がある。
「殺す気なら、人ごみに紛れさせるのがいちばん楽でしょうね」
政悟の声で部屋の空気が少しだけ張り詰める。だが政悟は気にする様子もなく、写真をちゃぶ台に戻す。
「了解。それで班長、俺たちはどこに行けばいいんです?」
八真人が、わずかに眉を動かした。
「京都だ」
「まぁ、そんな所だろうなとは思った。ったく、護衛もつけず呑気に観光かよ」
隼斗が盛大なため息をついた。
任務当日。
「僕はきみが年上でも、敬語を使わないからね」
いきなり投げつけるような口調で告げられ、八真人は「ああ」とだけ答えた。共に行動を開始してからずっとこの調子だ。
「それにしても、修学旅行生みたいだよ。僕たち、同級生には見えないのに」
政悟は不満そうな顔で、隣にいる八真人――イチくんの姿をちらりと視界に収めた。二人とも、同じブレザータイプの学生服を着ている。いつもなら兄たちと行動している任務。それが今回は、新入りの高校生・八真人とのペアだ。
「政悟は中三だろう。最近、修学旅行で来たんじゃないのか? 京都」
八真人が尋ねると、
「修学旅行には行ってないよ。急な任務が入るかもしれないし。特に行きたくもなかったし」
そっけない返事が返ってきた。
「そうか」
それ以上、八真人は何も言わなかった。
日程は二泊三日。
彼らの気の抜けない三日間が、始まった。
対象者が京都を訪れるのは二度目だが、前回警護されて窮屈な思いをしたらしい。
「まずは南禅寺の散策だって。参考までに、イチくんは今までどんな任務をこなしたの?」
「まだ訓練だけだ」
「え? そうなの? じゃあ、僕の足を引っ張らないでよ」
いろいろと心配だなぁと言いながら、政悟は入口で手渡されたパンフレットを無造作にポケットに突っ込んだ。
南禅寺の境内は、まだ朝の冷たい空気をまとっていた。石畳を踏むたびに、乾いた音が足元に返ってくる。対象者がゆっくりと歩き出すと、二人もそれとなく距離を保ちながらついていった。
政悟がふと、視線を上げた。
「なんか、これって京都っぽくないね」
目の前にあるのは、水路閣。赤レンガと優美なアーチが連なる、水道橋の遺構。明治時代に建てられたこの水道は、今も琵琶湖から京都市内へと水を運び続けている。けれど、その洋風の重厚な姿は、南禅寺の和の景観の中では異質にすら映る。
「これは明治時代に建築されたらしい。詳しい経緯は知らないが、古都の景観を損ねるって、当時も異論が出たようだな。……だが、水は人が生きていく上で必要なものだ」
八真人が言った。
「ふぅん、それって僕たちみたいだね。こうやって紛れてはいるけれど、僕らの存在は、世に知られたら異論だらけだろうし。どう考えても、やっていることは修学旅行生っぽくないし」
「……確かに、そうかもな」
「それにしても外国人だらけだね。これだけ多くの外国人に紛れたら、対象者を見失いそうだよ」
「そうだな。おい、あいつ動いたぞ」
二人の視線の先では、対象者が興味深そうにあちこちを散策していた。二人は足早に歩を進める。
しばらくその背中を追って歩いていた八真人が、ふいに足を止めた。政悟も立ち止まる。視線の先には杉苔の中に配石された景石があった。日差しが斜めに差し込み、苔の上にまだらな陰影を落としている。
政悟はポケットに突っ込んでいたパンフレットを開いた。ここは「六道庭」のようだ。六道輪廻の戒めの庭と記されている。
「ええと、六道って六つの世界を生まれ変わり続けるという仏教の世界観なんだっけ? 解脱できないうちは人って永遠に輪廻するんでしょう? 僕は、輪廻を抜けられるほどの徳を積んでないから、きっと来世も散々だろうな……ってイチくん、聞いてる?」
八真人は、黙って何かを見ていた。けれど、それが「何か」はわからない。
政悟は横から、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、イチくん、ここに来たこと、あるの?」
「……いや」
「じゃあ、なんでそんな顔するの?」
八真人は数秒、沈黙したあと、低くつぶやいた。
「昔、似た庭を見たことがある。たぶん家族で。まだ幼いころだと思う。そのときは、安心していた気がする」
その声には、いつもの無機質さがなかった。
ふっと風が吹いた。木々がざわめき、どこからか鐘の音が微かに響く。
政悟は言葉を探したが、うまく見つからなかった。
ただ──隣に立つこの彼にも、『忘れたくない何か』があるのだと知って、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「じゃあ僕と、もう一回、記憶を作る?」
「記憶?」
「そう。僕と来た初任務の京都。ちょっとくらい、覚えといてよね」
政悟が笑った。いたずらっぽく、それでいて、優しく。
八真人はわずかに目を見開いた。それから、ほんの少し、笑みを返した。
「……そうだな」
―――保内政悟、つかみどころのないやつだ――と八真人は思った。俺のことを突き放したと思えば、人懐っこい笑顔を向けてくる。まるで気まぐれな猫のようだな。種類は、ソマリの子猫あたりか。ふわっとした薄茶の毛、大きなまるい目、上品で整った顔立ち―――。
「何? 人の顔をじろじろ見て。気持ち悪いんだけど」
先ほどの笑顔はもう彼の地に行ったらしい。むっとした顔で政悟が八真人を睨みつけていた。
「ああ、すまない。考え事をしていた」
「あのね、任務中に他のことを考えないで。基本中の基本だよ。まったく、なんでこんな人を班に入れたんだろう」
「すまない」
八真人はもう一度謝った。
「僕も食べたかったな。京都の湯豆腐」
対象者は、数メートル先で昼食中。落ち着いた佇まいの店内で優雅に湯豆腐会席を食している。一方、店の外で、待つ政悟と八真人の手に握られているものはクレープだ。
「でさ、なんで僕たちはクレープなの?」
政悟が尋ねると、八真人は黙ってクレープを一口かじった。薄い皮の中には生クリームといちご。甘い匂いが漂う。
「確かに、昼ご飯を買って来てとは頼んだよ。でもさ、任務中に手がふさがるの、普通に危ないと思うんだけど」
「片手は空いてる」
「そりゃ、そうだけど……」
政悟はクレープを口の中に押し込み、バッグからペットボトルを出して一気にあおった。深く深呼吸をして、気持ちを少しだけ引き締める。
二人の横を制服姿の学生たちが楽しそうに通り過ぎた。
「いまのところ、怪しいやつはいないな」
いつの間にかクレープを食べ終えた八真人が言う。
「このまま何もなく三日間が終わればいいけど」
政悟は小さくため息をついた。
――夕刻
「おい、交代だ、ホテルに帰ってゆっくり休め。明日も早いぞ」
夕刻になり、隼斗とイハラが二人と合流した。これから対象者は、夜の京都に繰り出すらしい。さすがに、学生姿では目立つ。ここからはイハラと隼斗が翌朝まで対象者を警護する。
「とりあえず、ここまでは無事に終わったな。お疲れさん」
イハラのねぎらいの言葉に、八真人と政悟は顔を見合わせて頷いた。