「引き金の記憶」
中学二年を前にした春休み、短期留学に行きたいという政悟を、兄たちは快く送り出してくれた。
表向きは英語の勉強と文化研修。だが、裏では独自で調べた銃器訓練施設で元軍人たちから射撃の実地訓練を受けていた。
射撃音が、乾いた風に溶けていく。
政悟は耳当ての奥で鼓膜が震えるのを感じながら、照準器の先に据えた標的から目を離さなかった。
距離15メートル。人型ターゲットの中心、赤く塗られた急所。――そこに、あと一発。
「Take a breath. Steady. Good boy.」
(息を吸って。落ち着いて。いい子だ)
軍服姿の教官が英語でささやいた。男はかつて実戦経験のある元傭兵で、名前も国籍も偽名だった。ここは、そういう場所だった。
政悟は息を吐いた。
射撃の名手だった父が昔、残したノートに書いてあった。
『照準は視線で捉え、引き金は意志で引け』と。
引き金にかけた指に、わずかな躊躇が生まれる。だが、それは一秒も保たず消えた。
パン。
乾いた一音とともに、ターゲットの急所に穴が空いた。完璧だった。
標的の紙がわずかに揺れ、風にきしむ音がした。
政悟は無言で銃を下ろす。撃った瞬間の衝撃で、右手がしびれていた。それでも、満足感よりも、胸の奥に渦巻くのはただ一つ。
「……これで、ようやく僕にも見える」
兄たちが見ている世界。普通の教室や、進学や、未来図の外にある何か。
教官が笑った。
「That’s some precision for a first-timer. You ex-military or something?」
(初めてにしては見事な正確さだな。まさか元軍人か?)
政悟はヘッドホンを外し、少しだけ笑った。
「No, I just have two older brothers」
(違います。ただ、兄が二人いるだけです)
──そして、日本へ帰国した日。
空港まで迎えに来た隼斗が尋ねた。
「留学は楽しかったか? 英語、少しは上達したか?」
政悟はうなずいてみせた。
「まぁ、なんとか」
英語だけじゃなかった。構え方、呼吸、重さ、反動、殺意――全部、覚えてきた。
「和兄がさ、『政悟は将来、世界中を渡り歩く学者にでもなるのかな?』なんて嬉しそうに言ってた。まぁ、俺はそうだな、普通に生きてりゃそれでいいけど」
兄たちの言葉が、心に重く響いた。でも覚悟は決めていた。
(……普通に生きてほしい……か)
政悟は、その願いをもうすぐ裏切る。和大に直談判すると決めていたのだ。だから彼は、言葉の代わりに、手をポケットに入れて握りしめた。あのとき撃ったトカレフの重さが、手のひらに残っている気がした――。
―――――――――――――――――――――
翌朝、鍵の開く音で目が覚めた。コンテナの扉が開くと、白い朝陽と盛夏の熱気が一気に流れ込む。蝉の合唱が耳を突き、眩しさに目を細めた瞬間、若い男が襲い掛かって来た。
男は素手とは思えない速さで飛びかかる。男は異様な身体能力を持っていた。
「っ!」
咄嗟にナイフを男の太腿に突き刺すと、熱を帯びた血が弧を描き、湿った土に染みた。男は呻きながらも追ってくる。化け物じみた動きに、政悟はとにかく走った。
昨日から何も食べていない。フラフラの体で逃げ惑う。
やがて管理者らしき中年の男性が現れ、政悟を制止した。
「あの、さっきの人は何です? 人間離れしてたんですけど」
うだる暑さの中で絞り出した質問に、男は一瞥をくれるだけだった。
「余計なことは聞くな、ついてこい」
連れて行かれた施設は、山間を抜ける熱風で屋根が軋む。束の間の休息を取り、過酷な訓練は続いた。
── 訓練は、地獄だった。
真昼の陽射しの下、熱せられた岩肌を転げ落ちながら、飢えた獣や軍事用ロボットと戦う。夜になっても、熱帯夜の蒸し暑さのせいで眠れない。汗で湿った服は乾く暇もなく、塩が浮いて肌を裂いた。
襲ってくるのは人間だけでなく、飢えた獣、軍事用ロボット。挨拶を交わした仲間が、数時間後には夏草の上で血まみれで倒れている。逃げ出す道はなく、夜の森では蛍の淡い光が倒れた身体を照らした。
「こんな話、聞いてねえ!」
「騙された!」
誰かが叫んでも、山のむせ返る湿気が声を飲み込み、蝉の声が上書きするだけだった。
政悟は、ただ思う。
(兄さんたちも……これを超えた。だったら――僕にも、できるはずだ。追いつきたい。隣に立ちたい。ただそれだけのために、僕はここにいる。これができなきゃ、隣に立てない)
── 開始から1ヶ月後。訓練は唐突に終わりを告げた。
滝のような夕立が去った直後のフィールドは、夏の蒸気を含んだ血の匂いで満ちていた。臓物が転がり、吹き飛ばされた草花は湿った泥に貼り付いている。ある者は嘔吐し、ある者は放心し、夏草の上で震えていた。
その中で――政悟だけは、涼しい顔で立っていた。
14歳になったばかりの、ただの少年。けれど、真夏の地獄を生き抜いた証がその瞳に宿っていた。
『もう嫌だ。やっぱりやめる』
そう言って泣きついてくるだろう──兄たちの予想は、真夏の蜩の声とともに、見事に外れた。