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序章

どきどきします。よろしくお願いします。

彼女の手の甲に、涙の雫が落ちていた。


すぐに顔を上げた僕の視界に映ったのは、まばたきの合間に光る、紬の瞳。

艶のあるカールされた睫毛に、しずくの名残が滲んでいた。


──今の映像に、感動するような場面はなかったはずなのに。


スクリーンでは、古いデビュタントの記録映像が流れていた。静かな音楽とともに、舞踏会の照明がゆっくりと揺れ、若い男女が踊る。


西麻布の歴史あるホテルの一室で行われた、今年はただ1人の日本人としてデビュタントに招待された高階家の令嬢へのインタビュー中のひと幕だった。


スタッフの間にも小さな動揺が走る。

彼女の側仕えとして紹介されていた女性――明子さん、だったか。彼女へ白いリネンのハンカチを差し出した。

彼女はほんのわずかに眉を下げ、目元にそれをそっとあてた。


「すみません。この場に立つと、あのときのことを思い出してしまって……」


その声は、まるで柔らかな絹に触れるときのような響きだった。

微笑の余韻まで香るような声。きっと、あの声で「ありがとう」と言われたら、誰も逆らえない。


空気が少しだけ緩み、スタッフたちも安心したように映像へと視線を戻していく。

僕も同じように笑みを浮かべてうなずいたけれど、なぜか彼女の言葉だけが、耳の奥で静かに残った。


──ほんとうに、思い出して泣いたのだろうか。







インタビューは、二時間にも及んだ。


終了後、紬は一人ひとりに丁寧に礼を言い、白い芍薬の花束を受け取ると、シャンパン色のドレスの肩にカシミアのストールをかけて、ゆっくりと会場をあとにした。その歩き方には、二十一という年齢の瑞々しさよりも、旧財閥である高階家に相応しい、しなやかで緊張感のある品が見える。


ただその背中がインタビュー前よりも小さく霞んで見えた気がした。


(あの涙は、ほんとうは別の“誤作動”だったのかもしれない)


そんな考えがふと浮かび、そしてすぐに打ち消した。



僕だって、寝不足の朝にはコマーシャルでさえ涙ぐんでしまう。

感情と体は、たまに別々の方向を向く。


それに――人は案外よく、理由もなく涙が溢れるものだ。





帰りの車内、マネージャーの叶さんがタブレットを差し出してくる。


「怜さん、次のドラマの話が正式に来ました」


「……っ本当ですか?」


息が詰まる。弾んだ声が自分でも少し浮いて聞こえて、目線を落とした。今日のために新調されたベルルッティのオックスフォード。革の艶が鈍く光る。


「ただ、その役にはかなり時間を割く必要があります。モデルの仕事は一部セーブになります。それでも?」


「……やります。やらせてください。僕、演技がしたくて……ずっと、したいんです」


叶は少しだけ目を細めて、厳しい表情に笑みを滲ませた。


「今度の作品は、昭和戦前のラブストーリー。怜さんは軍人の夫役です。畳での所作や茶道の場面があるようなので、ふさわしい所作を身につけてもらいます。茶道をされたことは?」


「……茶道、幼稚園のときに少しだけ。正座はまあ、なんとか……」


「では、監督の知人に作動を教えてくださる方がいらっしゃるらしいので、その方に頼みます。撮影まで三ヶ月。演技と体づくりも含めて、総仕上げです。あのアンバサダーの仕事でかなり絞れましたからね」


うなずくと同時に、胸の奥にうすく波が立った。与えられた役に心から飛びつく自分が、どこか痛ましくも感じる。僕が褒められるのは、いつも顔だった。「いいドラマだったね」と言われても、それが演技の感想だったことはほとんどない。『大人気若手人気俳優!』として以前テレビで紹介された時は、自嘲せざるを得なかった。


⸻自分は、俳優という存在に指先さえも届いていないのに



それでも演じたくて、毎回、不安に目を背けてセリフを入れてきた。だから今度こそは、と何度も思う。

今度こそ、自分の芝居を輝かせたい。そのためなら何だってする。


1人静かに決意を固めていると、目黒にあるマンション前に車が滑り込む。夜の東京は、春の気配をひと筋、風に混ぜはじめていた。


「この仕事……本当にありがとうございます。期待に応えられるよう、頑張ります」


そう言い切って後部座席を押し開けると、少しだけ冷えた空気が肌を撫でた。



登場人物

・高階紬:お嬢様、21歳

・早瀬怜:俳優、25歳

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