表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/33

第7話 禁断のブースト回路

精密ドライバーを巧みに操りながら、レンは目の前のリストバンドの内部構造に見入っていた。彼の作業場は、雑然としながらも機能的に工具や部品が配置され、壁には複雑な回路図やエネルギー波形のグラフが貼られている。レンはこの街で評判のリストバンド技師だった。公式のメンテナンスや修理はもちろん、顧客の細かな要望に応じたカスタマイズも手掛ける。しかし、彼の真の情熱は、そのさらに先――リストバンドの限界を探求することにあった。


「……この部分か。エネルギー変換のプロセスで、一番効率を落としているのは」


モニターに映し出されたシミュレーションデータと、分解したリストバンドのコアユニットを交互に見比べながら、レンは呟く。公式の仕様では安全のために性能が抑えられているが、理論上はもっと出力を上げられるはずだ。もちろん、それは推奨されない、いわば禁じられた領域への探求だった。


そんな彼の元に、幼馴染のユミが訪ねてきたのは数週間前のことだ。ユミは将来を有望視される陸上選手だが、極度のあがり症で、大事な大会になるとプレッシャーから集中力が途切れ、本来の力を出しきれないでいた。そんな時、彼女のリストバンドの輝きも、不安を示すかのように弱々しくなるのだった。


「レン、お願いがあるの」


ユミは俯きながら切り出した。彼女の手首には、スポーツ選手向けにカスタマイズされた、しかし今は鈍い光しか放っていないリストバンドがあった。


「次の選考会、どうしても勝ちたい。レースの間だけでもいい、最高の精神状態で走りたいの。自信を持って、集中力を切らさずに……。私のこのリストバンドが、もっと強く輝くようにできないかな?」


それは、リストバンドの不正改造にも繋がりかねない、デリケートな依頼だった。レンは一瞬言葉に詰まった。リストバンドの輝きは、本人の内面と連動している。それを外部から操作することは、精神状態に干渉することを意味する。


「ユミ、それは……精神的に大きな負担がかかるかもしれない。危険だよ」

「分かってる。でも、このままじゃ、プレッシャーに負けて、また実力が出せないまま終わっちゃうかもしれない。お願い、レン。あなたしか頼めないの」


ユミの切実な瞳に、レンの決意は揺らいだ。彼女の苦しみを知っているからこそ、無下に断ることができない。そして、技術者としての探求心も、危険な誘惑に囁きかけていた。自分の技術で、友人の心を支え、最高のパフォーマンスを引き出す手助けができるかもしれない……。


数日後、レンはユミに小さなチップを手渡した。彼が秘密裏に開発した「ブースト回路」。リストバンドのコアユニットに組み込み、特定のトリガー信号(例えば、レース開始の号砲)を検知すると、装着者の精神を高揚させ、極度の集中状態、いわば強制的な「ゾーン」状態を作り出す。その結果、リストバンドもかつてない強い輝きを放つことになる。ただし、その代償として、レース後の精神的な消耗や神経系への過負荷が大きいことも、レンは正直に伝えた。


選考会当日。レンは観客席から固唾を飲んでユミの走りを見守っていた。スタートの号砲が鳴り響いた瞬間、ユミのリストバンドが閃光のような強い輝きを放った。その輝きに呼応するように、ユミの表情が変わり、迷いのない、驚異的な集中力でトラックを駆け抜ける。まるで精神的なリミッターが外れたかのように、彼女が本来持っていたポテンシャルが最大限に引き出され、自己ベストを大幅に更新し、一位でゴールテープを切った。


歓声が沸き起こる。しかし、レンは喜べなかった。ゴール直後、極度の集中から解放されたユミは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちたのだ。医務室に運ばれたユミは、精神的な燃え尽きと、ブースト回路による神経系への過負荷で、しばらく安静が必要だと診断された。幸い命に別状はなかったが、虚ろな目で天井を見つめるユミの姿を見て、レンは激しい罪悪感に打ちのめされた。


「俺は、なんてことを……」


自分の技術が、友人の心を無理やりこじ開け、危険な領域に踏み込ませてしまった。ただ、助けたかっただけなのに。


追い打ちをかけるように、さらなる悪夢がレンを襲う。数日後、彼がブースト回路のデータを保管していたサーバーに、不正アクセスの痕跡が見つかったのだ。そして、最も恐れていた事態が起こった。あの回路の設計データが、丸ごと盗まれていた。


誰が? 何のために? 嫌な予感がレンの背筋を凍らせる。


その予感は、すぐに現実のものとなった。インターネットの裏掲示板や、アンダーグラウンドな情報サイトで、「究極のメンタルブースター」「どんなプレッシャーも跳ね除け、最高の輝きを」といった謳い文句と共に、レンが開発したブースト回路、あるいはその粗悪なコピー品らしきものが高値で取引され始めたのだ。


ニュースでも、「不自然な精神の高揚」「感情ドーピングの可能性」といった報道が目立ち始める。スポーツ界だけでなく、アイドルのライブパフォーマンス、企業の重要なプレゼンテーション、さらには受験や試験など、強い精神力が求められる様々な場面で、その禁断の技術が悪用され始めている気配があった。努力や鍛錬ではなく、技術によって精神状態を無理やり操作する。そんな歪んだ現実が、静かに、しかし確実に社会に広がりつつあった。


「俺が……俺がこれを生み出してしまった……」


レンは作業場で頭を抱えた。ユミを助けたいという純粋な気持ちと、技術への過信が生んだモンスター。このままでは、ユミのような犠牲者がさらに増えるだろう。社会の秩序も、人の心のあり方に対する信頼も、根底から揺るがされかねない。


技術は、人を幸せにするためにあるべきだ。レンは固く拳を握りしめた。自分の過ちは、自分で正さなければならない。


危険は承知の上だった。設計データを盗み、悪用している連中は、おそらく普通の人間ではないだろう。下手に動けば、自分の身も危うくなるかもしれない。それでも、レンは決意した。


彼は作業場の椅子に深く座り直し、モニターに向かった。ディスプレイに映し出されるのは、複雑な回路図。それは、彼が生み出してしまった「禁断の果実」――ブースト回路の構造だった。しかし、彼の目は、その回路の脆弱性、あるいはそれを無効化するためのカウンター技術を探していた。


孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。自らが開けてしまったパンドラの箱を、再び閉じるために。レンは、静かにキーボードを叩き始めた。窓の外では、女子力発電によって輝く街の灯りが、何も知らずに瞬いていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ