第6話 リストバンドが映さない輝き
朝のキッチンは、いつも少しだけ憂鬱な場所だった。カナエがスマートケトルに水を入れ、スイッチを押す。鈍い電子音が鳴るものの、沸騰が始まる気配はなかなか訪れない。手首につけたリストバンドが放つのは、頼りなく明滅する薄桃色の光。まるで、持ち主のエネルギー不足を主張しているかのようだ。
「また、これだわ……」
カナエはため息をつき、ケトルの横を軽く叩いた。まるで古い機械をなだめるように。女子力発電が社会の基盤となって久しいこの世界では、家電の性能は、使用者のリストバンドが放つエネルギー量に左右される。発電量の高い女性が使えば瞬時にお湯が沸くケトルも、今のカナエの手にかかると、ひどく機嫌の悪い古道具のように振る舞うのだった。
夫と高校生の娘・ミキを送り出した後、リビングのテーブルに置かれた請求書の束を見て、カナエの眉間のしわがまた深くなった。電気代、水道代、通信費……どれもこれも、基本料金に加えて「エネルギー貢献度」に応じた割引があるのだが、カナエの貢献度は低い。つまり、割引はほとんど適用されない。毎月、家計を圧迫する数字を見るたびに、自分が社会のお荷物であるかのような気分にさせられた。
壁のカレンダーに記された「授業参観」の文字が目に入る。来週に迫ったその日を思うと、さらに気が重くなる。ミキのクラスメイトの母親たちは、皆若々しく、リストバンドは流行りのデザインで、明るい光を放っているだろう。それに比べて自分は……。くたびれたブラウスに、標準支給されたままの古めかしいリストバンド。そして、この消え入りそうな光。ミキに恥ずかしい思いをさせてしまうのではないか、そんな不安が胸をよぎる。
若い頃は、もう少しマシだった。恋をして、おしゃれをして、友人と笑い合って。それなりにリストバンドも輝いていたはずだ。しかし、結婚し、出産し、子育てと家事に追われるうちに、いつの間にかその輝きは色褪せてしまった。日々の生活に「可愛らしさ」や「華やかさ」といった、社会が評価する「女子力」を発揮する余裕など、どこにもなかった。
***
授業参観当日。カナエは一番後ろの席で、小さくなって娘の姿を目で追っていた。予想通り、周りの母親たちのリストバンドは色とりどりに輝いている。最新のデザインのもの、宝石のような飾りがついたもの。それらが放つ光は、教室の照明を補助するかのように明るい。
グループワークで積極的に発言する娘の姿に目を細めながらも、カナエは自分の手首を隠すように握りしめた。隣に座った母親が、ふとした拍子にカナエのリストバンドに目を向け、すぐに興味なさそうに視線を外したのが分かった。悪気はないのだろう。しかし、その一瞬の無関心が、カナエの心をちくりと刺した。
帰り道、俯きがちに歩いていると、自宅の隣の家から、苦しそうな咳が聞こえた。一人暮らしのサトさんの家だ。御年80歳を超えるサトさんは、最近少し体調を崩していると聞いていた。心配になって玄関のチャイムを鳴らすと、応答がない。もう一度鳴らし、ドアノブに手をかけると、鍵が開いていた。
「サトさん? 大丈夫ですか?」
声をかけながら家に入ると、居間でサトさんがソファにぐったりと横になっていた。顔色が悪く、呼吸も少し荒い。慌てて駆け寄り、額に手を当てると熱があった。
「まあ、カナエさん……ごめんなさいね、ちょっと動けなくて」
「いいんですよ、気にしないでください。お医者さんは?」
「昨日来てもらったんだけどね……薬はあるんだけど、何か食べるものも作る気が起きなくて」
放っておけるはずがなかった。カナエはサトさんのために、まずはおかゆを作ることにした。冷蔵庫にあるもので手早く調理し、薬を飲ませ、汗をかいた寝間着を着替えさせる。布団を敷き直し、サトさんを寝かせつけると、ほっとしたように目を閉じた。
それから数日間、カナエは自分の家の家事の合間を縫って、サトさんの家に通った。食事を作り、部屋を掃除し、洗濯をする。最初は申し訳なさそうにしていたサトさんも、次第にカナエに心を開き、昔話や、亡くなった夫の話などをぽつりぽつりと話してくれるようになった。カナエはただ、黙って耳を傾けた。サトさんのしわくちゃの手を握りながら、相槌を打つ。若い頃の華やかな思い出、戦争を経験した苦労、夫との穏やかな日々。その一つ一つの話が、カナエの心にじんわりと染み込んでいくようだった。
ある日の午後、いつものようにサトさんの手を握り、若い頃の写真を見ながら話を聞いていると、サトさんが穏やかな声で言った。
「カナエさん、本当にありがとうねぇ。あんたが来てくれると、心が安らぐよ。まるで、娘がそばにいてくれるみたいだ」
その言葉は、カナエの心の奥に温かく響いた。誰かの役に立っている。誰かに必要とされている。その実感が、胸を満たしていく。ふと、自分の手首に目をやったカナエは、思わず息を呑んだ。
リストバンドが、見たことのない光を放っていた。
それは、授業参観で見たような、鮮やかで強い光ではない。色も、以前の薄桃色とは違う。まるで、夕暮れ時の空のような、柔らかく、深く、そしてどこまでも温かいオレンジ色の光。派手さはないけれど、安定していて、見ているだけで心が落ち着くような、不思議な輝きだった。
「あら……?」
カナエは自分のリストバンドをまじまじと見つめた。発電量の数値を示すインジケーターは、依然として低いままだ。社会的な評価基準で言えば、この光は「価値が低い」ものなのかもしれない。
しかし、カナエはそう思わなかった。この光は、サトさんを思いやる心、日々の暮らしを丁寧に紡ぐことへの静かな誇り、そして、誰かの痛みに寄り添う優しさから生まれている。それは、数値では測れない、「母性」や「慈愛」と呼ばれる種類のものなのだろうか。
リストバンドが映し出す数値や、世間が求める華やかな「女子力」だけが全てではない。自分には、自分だけの輝かせ方があるのかもしれない。
カナエは、サトさんの手を優しく握り直し、微笑んだ。リストバンドの温かい光が、サトさんの寝顔を柔らかく照らしていた。
帰り道、カナエの足取りは少しだけ軽かった。空は曇っていて、自分のリストバンドの光も、日差しの下では目立たないかもしれない。それでも、確かに自分の中に灯った温かい光の存在が、カナエの心をそっと支えてくれていた。キッチンに立っても、もう以前ほど憂鬱ではないかもしれない。ゆっくりと、でも確実に湯を沸かすケトルのように、自分らしいペースで、自分らしい輝きを大切にしていこう。カナエはそう、静かに心に決めたのだった。