第16話 虹色のクレヨン
じっとりとした湿気を含んだ空気が、子供たちの熱気と混じり合う6月の保育室。アカリは、おもちゃの取り合いで泣き出した子をあやし、ブロックを部屋中にぶちまけた子を注意し、絵の具で制服を汚した子の着替えを手伝いながら、心の中で何度目か分からない悲鳴を上げていた。
「アカリ先生、こっち、まだお昼寝の準備できてない子がいるわよ!もっと周りを見て!」
先輩保育士であるチヒロさんの、落ち着いているが鋭い声が飛んでくる。彼女の手首では、深い森のような緑色のリストバンドが、常に安定した力強い光を放っていた。それは、何十人もの園児をまとめ上げる包容力と、確かな経験に裏打ちされた自信の現れなのだろう。それに比べて、アカリのリストバンドは、彼女の焦りと不安を映すかのように、弱々しいオレンジ色の光を頼りなく明滅させているだけだった。
保育士になって3ヶ月。子供が好きだという気持ちだけで飛び込んだこの世界は、想像以上に過酷で、理想と現実のギャップにアカリはすっかり自信をなくしていた。
特にアカリの悩みの種は、年中組のミオちゃんだった。ミオちゃんは、クラスで一番小柄で、そして一番言葉数の少ない女の子。他の園児たちが騒がしく遊ぶ輪には決して入らず、いつも部屋の隅で、一人黙々と絵を描いている。彼女の小さなリストバンドは、まるで存在を主張することを拒むかのように、ほとんど光を放つことがなかった。
アカリが「ミオちゃん、何描いてるの?」と話しかけても、ミオちゃんはこくりと頷くだけ。「一緒に滑り台で遊ぼう?」と誘っても、ふるふると首を横に振るだけ。どうすれば、この子の心の扉を開けるのだろう。アカリは、自分の無力さに胸が締め付けられるような思いだった。
その日も、窓の外は朝から灰色の雨が降り続いていた。夕方になり、お迎えの保護者たちが次々とやってくる。子供たちの賑やかな声が一つ、また一つと減っていき、保育室は少しずつ静けさを取り戻していく。そんな中、ミオちゃんのお母さんから、「仕事でトラブルがあって、お迎えが30分ほど遅れます」と電話が入った。
やがて、最後の園児も帰り、広い保育室には、アカリとミオちゃんの二人だけが残された。しとしとと窓を打つ雨音だけが響く。気まずい沈黙。ミオちゃんは、いつものように机に向かい、画用紙に何かを描いている。アカリは、どう声をかければいいのか分からず、ただ遠巻きにその小さな背中を見つめていた。
(また、今日も何も話せないまま終わっちゃうのかな……)
諦めかけたその時、アカリはふと、壁際に置かれたクレヨンの大きな箱に目をやった。そして、一つの考えが浮かんだ。無理に話しかけるのがダメなら……。
アカリは、そっとクレヨンの箱を手に取り、ミオちゃんが座る机の、向かい側の椅子に静かに腰を下ろした。そして、何も言わずに自分も一枚の画用紙を取り出し、クレヨンを握った。ミオちゃんが、ちらりとアカリの方を見た気がした。
アカリは、ただ夢中で絵を描き始めた。子供の頃、自分が好きだったもの。大きな入道雲と、その上を飛ぶクジラ。顔よりも大きなひまわりの花畑。七色の尻尾を持つリス。言葉で伝えるのは苦手でも、絵を描くことは好きだった。仕事のプレッシャーも、先輩の厳しい声も忘れ、アカリは童心に返って、自由な空想の世界を画用紙の上に広げていった。
どれくらい時間が経っただろう。ふと顔を上げると、ミオちゃんが、いつの間にか席を立ち、アカリのすぐ隣に立って、その手元をじっと見つめていた。その瞳には、初めて見る、強い好奇の色が浮かんでいる。
アカリは、ミオちゃんのために描いていたわけではなかった。でも、自分の「好き」が、初めてミオちゃんの心に届いたのかもしれない。アカリは、描き上げたばかりの、青々とした草原の絵を、ミオちゃんの方へそっと向けた。
すると、ミオちゃんはおずおずと手を伸ばし、クレヨンの箱から、虹色の模様が入った特別なクレヨンを取り出した。そして、アカリが描いた草原の絵の上に、小さな、けれどしっかりとしたアーチを描いたのだ。青い空と緑の草原を繋ぐ、可愛らしい虹。
その瞬間だった。
今までほとんど光を発することのなかったミオちゃんの小さなリストバンドが、ほんのりと、しかし確かに、クレヨンと同じ七色の淡い光を灯したのだ。それは、ミオちゃんの心の中に生まれた、純粋な「楽しい」という感情の輝きだった。
その温かく、無垢な光に触れ、アカリのささくれ立っていた心が、じんわりと満たされていくのを感じた。ああ、そうか。この瞬間のために、私は保育士になったんだ。
次の瞬間、アカリ自身のリストバンドが、呼応するように、ふわりと光を放った。それは、今まで見せたことのない、パステルカラーが優しく混じり合ったような、柔らかく多彩な光。流行の輝きでも、自信に満ちた強い光でもない。目の前の小さな心の芽生えに寄り添い、その成長をすぐそばで見守る「育む力」から生まれる、保育士という仕事ならではの、特別な女子力の輝きだった。
この出来事をきっかけに、アカリは言葉だけがコミュニケーションではないこと、子供のペースに寄り添うことの大切さを学ぶ。
翌日、登園してきたミオちゃんは、アカリを見つけると、小さな声で「せんせい、いっしょ」と言って、クレヨンの箱を差し出した。アカリは「うん、一緒に描こうね」と微笑み返し、その手を取った。彼女のリストバンドは、もう不安げに揺らぐことはなく、雨上がりの空のように、穏やかで、希望に満ちた豊かな輝きを放っている。
保育室の入口で、その様子を見ていたチヒロさんが、ほんの少しだけ口元を緩め、優しく頷いたことに、まだアカリは気づいていなかった。