第14話 戦場と創造のスパーク
むわりとした夏の熱気が部屋にこもる午前3時。ミサキは、コーヒーで無理やり覚醒させた頭で、最後の仕上げをしたばかりの新刊同人誌を丁寧に段ボールに詰めていた。目の下には濃い隈が浮かび、肩も首もバキバキに凝っている。それでも、積み上げられた新刊の束を見つめる彼女の瞳だけは、達成感と、これから始まる特別な一日への微かな期待で、らんらんと輝いていた。
普段のミサキは、大学でもサークルでも目立たない存在だ。人付き合いは苦手で、自分の意見をはっきり言うのも得意じゃない。手首のリストバンドも、まるで彼女の内気さを反映するかのように、いつも白っぽく、か細い光を放っているだけ。女子力なんて、自分には縁遠いものだと思っていた。
けれど、唯一の例外がある。それは、愛してやまない漫画やアニメの二次創作、イラストを描き、物語を紡いでいる時だ。ペンタブレットを握り、キャラクターたちの世界に没入している間だけ、彼女のリストバンドは、まるで集中した思考がそのまま光になったかのように、細く鋭い、けれど確かな青白い光を灯すのだった。
年に数回開催される大規模な同人誌即売会は、ミサキにとって、自分の「好き」を唯一解放できる、大切な戦場であり、祭りでもあった。
会場である巨大な展示場は、開場前からすさまじい熱気に包まれていた。全国から集まったであろう参加者たちの期待と興奮が、まるで目に見える蒸気のように立ち昇っている。ミサキは、その圧倒的なエネルギーに少し気圧されながらも、割り当てられた小さなスペースに、新刊や既刊、手作りのポスターなどを手際よく並べていった。
周りを見渡せば、人気ジャンルの大手サークルにはすでに長蛇の列ができている。売り子の女性たちのリストバンドは、自信と作品への愛を示すかのように、色とりどりの華やかな光を放ち、会場全体の電力供給の一翼を担っているかのようだ。それに比べて、自分のスペースはあまりにもひっそりとしていた。
「……誰も、来てくれないかも」
即売会が始まって一時間が過ぎても、ミサキのスペースの前を通り過ぎる人はいても、足を止めてくれる人はほとんどいない。たまに手に取ってくれても、パラパラと数ページめくっただけで、黙って本を置いて去っていく。そのたびに、ミサキの心はチクリと痛み、リストバンドの光も、さらに弱々しくなっていくのを感じた。やっぱり、自分の作品なんて、誰にも響かないのかもしれない。創作に費やした時間と情熱が、空回りしているような無力感に襲われる。
俯きかけたその時だった。
「あの……すみません、この本、見てもいいですか?」
顔を上げると、一人の女性が、ミサキの新刊を手に取ろうとしていた。年はミサキと同じくらいだろうか。少し緊張した面持ちで、けれど真剣な目で表紙を見つめている。ミサキは「は、はい、どうぞ……」とどもりながら答えた。
女性は、その場でゆっくりとページをめくり始めた。ミサキは、心臓が早鐘を打つのを感じながら、息を詰めて彼女の反応を見守る。数分が永遠のように感じられた。
やがて、最後のページを読み終えた女性は、ふう、と小さく息をつき、そして、顔を上げてミサキに微笑みかけた。
「あの……!この作品、すごく、すごく好きです!主人公の気持ちが痛いほど伝わってきて……最後のシーン、思わず泣きそうになりました」
その言葉は、まるで乾いた大地に染み込む雨のように、ミサキの心にじんわりと広がった。そして、女性の手首で輝くリストバンド――それは、作品のテーマカラーである淡い空色に、共感の温かさを乗せたような優しい光だった――から、純粋な「好き」という感情のエネルギーが、まっすぐにミサキに流れ込んでくるのを感じた。
次の瞬間、パチッ、と小さな音がして、ミサキ自身のリストバンドが、まるで火花を散らすように、鮮やかな青白い閃光を放ったのだ。それは、今までミサキ自身も見たことのない、力強く、そして喜びに満ちた輝きだった。
「え……?」
驚いたのはミサキだけではない。声をかけてくれた女性も、そして偶然近くを通りかかった他の参加者たちも、ミサキのリストバンドの突然の鮮烈な輝きに目を丸くしていた。
その輝きは、まるで呼び水になったかのようだった。
「なんだろう、あの光……」「あ、このサークル、さっき気になってたんだよね」
少しずつ、ミサキのスペースに人が集まり始めたのだ。新刊を手に取り、熱心に読んでくれる人。登場キャラクターについて熱く語りかけてくる人。「このセリフ、すごく共感しました!」「次の話も期待しています!」――そんな言葉の一つひとつが、読者のリストバンドから放たれる共感の光と共に、ミサキの創造エネルギーをさらに増幅させていく。
リストバンドは、まるでミサキの内に秘められた情熱と、読者からの共感がスパークして生まれた炎のように、力強く輝き続けた。それは、人気サークルの華やかさとは違う、もっと個人的で、けれど誰にも負けないくらい強い、創造の輝きだった。
あっという間に閉会の時間が訪れた。新刊は、予想をはるかに超えて、ほぼ完売していた。身体は疲労困憊のはずなのに、ミサキの心は、かつてないほどの達成感と、誰かと「好き」という気持ちを共有できた純粋な喜びで、ふわふわと浮き立つようだった。
会場の片隅で、一人、自分の手首を見つめる。リストバンドは、まだ興奮の余韻を残すかのように、内側から湧き上がるような、確かな光を放っていた。
女子力なんて、自分には無縁だと思っていた。でも、もしかしたら、それは見た目の華やかさや、社交的な明るさだけを指す言葉じゃないのかもしれない。自分の「好き」を信じて、それを形にして、誰かと分かち合うこと。その時に生まれる、自分だけの特別な輝き。それもまた、一つの「女子力」の形なのだと、ミサキは強く、強く感じていた。
夏の終わりの夕焼け空が、祭りの後の静けさを優しく包んでいた。ミサキは、次の作品のアイデアをぼんやりと考えながら、少しだけ胸を張って、家路についた。