第12話 自分だけの充電スポット
金曜日の午後7時。ようやく鳴り止んだ内線電話の音を背に、リコは重い溜息をついた。パソコンの画面には、まだ修正依頼の赤字がびっしりと並んだデザイン案が表示されている。手首のリストバンドは、朝にはそれなりに明るいサーモンピンク色をしていたはずなのに、今はもう、ほとんど色味を感じさせない、くすんだ白っぽい光を弱々しく放っているだけだった。まるで、持ち主のエネルギーが底を尽きかけていると訴えるように。
「リコ、お疲れー。まだ終わらない感じ?」
隣のデスクの同僚、ユカが華やかな香水を漂わせながら声をかけてきた。彼女のリストバンドは、鮮やかなルビーレッドに輝き、これから始まる週末の予定への期待感を物語っている。
「うん、もうちょっと……。ユカはこれからデート?」
「そ! 話題のイタリアン予約してるんだ。しっかり女子力チャージしてこなきゃね! リコも早く上がって、エステとか行ったら? 顔、ちょっと疲れてるよ」
ユカの言葉に悪気がないのは分かっている。この社会では、女性の「女子力」は個人の魅力だけでなく、社会全体のエネルギー効率にも関わる重要な要素。だから、週末にエステやショッピング、恋人との甘い時間で自身のリストバンドの輝きを「充電」することは、ある種の努力であり、ステータスでもあった。
しかし、リコにはそれがどうにもピンとこなかった。高級エステのきらびやかな雰囲気も、流行のスイーツも、今の自分には眩しすぎる。ただ静かに、誰にも気を遣わずに、疲れた心を休めたい。それだけなのに。
今週もハードだった。クライアントからの度重なる仕様変更、上司の曖昧な指示、そして締め切り前の同僚たちのピリピリした空気。気を抜けば、自分のリストバンドの輝きが弱まり、それが仕事のパフォーマンス低下に繋がるのではないかというプレッシャーが常につきまとう。家に帰っても、何もする気が起きず、ただぼんやりとSNSを眺めては、キラキラと輝く友人たちの「充電」報告に、さらにエネルギーを吸い取られるような日々だった。
その日も、結局リコが会社を出たのは午後9時を過ぎていた。冷たい秋の夜風が頬を刺す。いつもなら真っ直ぐ駅へ向かう道を、なぜかその日は一本裏の、薄暗い路地へと足が向いた。まるで何かに導かれるように。
そして、偶然見つけたのだ。古い雑居ビルの間に挟まれた、本当に小さな看板。「ハーブティー専門 月の葉」と、控えめな文字で書かれていた。磨りガラスの向こうからは、温かな光と、微かに甘いハーブの香りが漏れている。
(ハーブティー……)
普段なら通り過ぎてしまうような店だった。でも、その時のリコは、吸い寄せられるように、その古びた木製のドアに手をかけていた。
店内は、カウンター席が数席と、小さなテーブルが二つだけのこぢんまりとした空間だった。壁にはドライフラワーが飾られ、優しい間接照明が店内を照らしている。そして、何種類ものハーブが詰められたガラス瓶が棚に並び、それらが放つ複雑で心地よい香りが満ちていた。
カウンターの中にいたのは、穏やかな笑顔を浮かべた、白髪の似合う年配の女性だった。
「いらっしゃいませ」
「あ、あの……一人なんですけど」
「どうぞ、お好きな席へ」
リコは、一番奥のテーブル席に腰を下ろした。メニューには、様々なハーブティーの名前が並んでいる。「リラックスブレンド」「ビューティーブレンド」「リフレッシュブレンド」……。
「おすすめはありますか?」
「そうですね……お疲れのようでしたら、こちらの『おやすみ前のカモミールブレンド』はいかがでしょう?リンデンやパッションフラワーも入っていて、心が落ち着きますよ」
店主の優しい声に促され、リコはそれを注文した。
やがて運ばれてきたティーカップからは、湯気と共に、りんごのような甘いカモミールの香りが立ち上る。一口飲むと、温かい液体がじんわりと喉を通り、強張っていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。
店主は、無理に話しかけてくるでもなく、かといって放置するでもなく、絶妙な距離感でリコの傍にいた。時折、天気の話や、窓辺に飾られた小さな鉢植えのハーブの話など、当たり障りのない、それでいて心が和むような言葉をかけてくれる。店内に流れるのは、歌詞のない、ピアノとチェロの静かな音楽。
どれくらい時間が経っただろうか。リコは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。いつの間にか、仕事のことも、同僚のことも、何も考えていなかった。ただ、温かいハーブティーの香りと、穏やかな時間に身を委ねていた。
ふと、自分の手首に目をやった。
リストバンドが、ゆっくりと、しかし確かに、柔らかく優しい乳白色の光を取り戻し始めていたのだ。それは、ユカのような鮮烈な輝きではない。けれど、月の光のように、静かで、心が安らぐような、温かい光だった。
(充電……されてる……?)
派手な刺激も、高価なサービスもない。ただ、自分らしくいられる場所で、心が求めるものに触れること。それだけで、こんなにも穏やかにエネルギーが満ちてくるなんて。
それから、金曜日の夜に「月の葉」に立ち寄ることが、リコのささやかな習慣になった。時には店主と少し話し込み、時にはただ黙って本を読む。無理に女子力を「高めよう」とするのではなく、すり減った心を「回復」させる。その静かな時間は、リコにとって何よりも大切な「充電」のひとときとなった。
月曜日の朝。オフィスに向かうリコの足取りは、以前よりも少しだけ軽やかだった。リストバンドも、週末に「月の葉」で丁寧に充電された、落ち着いた、しかし確かな輝きを放っている。
慌ただしい日常も、厄介な仕事も、無くなるわけではない。でも、自分には帰れる場所、素の自分に戻って心を満たせる時間がある。その事実が、リコの心を強く支えてくれていた。自分らしい充電方法を見つけたことで、リコは、このエネルギーに満ち溢れた社会との向き合い方を、ほんの少しだけ、変えることができたのかもしれない。