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第10話 フェスと嵐と女神の歌

楽屋のモニターに映し出される外の景色は、灰色一色だった。激しい雨が地面を叩き、時折唸るような風が建物を揺らす。ヒビキは、自分の出番を示すランプが点灯するのを待ちながら、冷たくなった指先をぎゅっと握りしめていた。


今日、この「スターライト・フュージョン・フェス」のステージに立つことは、駆け出しのシンガーソングライターである彼女にとって、夢への大きな一歩のはずだった。このフェスは、音楽の力だけでなく、観客――特に女性たちの興奮や感動といった「女子力」を集め、会場のエネルギーを賄うという画期的な試みでも注目されていた。ここで認められれば、メジャーデビューへの道も開けるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませていたのに、現実は記録的な嵐に見舞われていた。


「ヒビキちゃん、そろそろ準備を」


スタッフの声に、ヒビキは顔を上げた。スタッフの表情は硬い。


「正直、状況はあまり良くない。悪天候で観客の入りも大幅に減ってるし、何より……会場全体のエネルギーレベルがかなり低下してるんだ。皆、不安なんだろうね。リストバンドの輝きも鈍い。このままだと、ステージの照明や音響も不安定になるかもしれない」


最悪の場合、ステージ自体が中断される可能性もある、とスタッフは言葉を濁した。ヒビキは目の前が暗くなるのを感じた。こんな状況で、自分に何ができるだろうか。


重い足取りでステージ袖へ向かう。そこから見える景色は、想像以上に過酷だった。広大な野外ステージの客席エリアは、雨合羽を着た人々がまばらに点在しているだけ。強い風雨に打たれながら、皆一様に空を見上げ、不安そうな顔をしている。ステージ上の機材も、雨除けシートがかけられているものの、いつまで持つか分からない。


「……歌えるのかな、私」


足がすくむ。こんな状況で、誰が自分の歌など聴きたいだろうか。自分の無力さが、嵐の音に掻き消されそうなほど小さく感じられた。


「ヒビキ!」


背後から声がかかる。一つ前の出番を終えたバンドのボーカルだった。ずぶ濡れになりながらも、彼女は力強くヒビキの肩を叩いた。


「最悪の天気だけど、最高のお客さんだったよ! あんたの歌、ちゃんと届けてきな!」


その言葉に、迷っていたヒビキの心に、小さな灯がともった気がした。そうだ、こんな天気の中でも、私の歌を待ってくれている人がいる。たとえ少なくても。


深呼吸を一つ。ヒビキはステージの中央へと歩み出た。マイクスタンドの前に立ち、濡れた客席を見渡す。人々の顔はまだ不安げだ。ヒビキは目を閉じ、マイクを両手でそっと包み込んだ。


静寂。雨音と風の音だけが響く。


ヒビキは、ゆっくりと息を吸い込み、歌い始めた。最初は、ほとんどアカペラに近い、か細い声。その歌は、激しい雨音に負けそうなほどか細かったが、今のヒビキ自身の、そしてここにいる誰もが感じているであろう不安と、それでも失いたくない小さな希望を、飾り気のない言葉で正直に歌っていた。嵐の中で凍えるように肩を寄せ合う人々の姿、不安な瞳の中にそれでも消えない光を探そうとする切実な想いが、メロディに乗って静かに流れ出した。


ヒビキの声は、決して大声量ではなかったが、不思議なほど真っ直ぐに、雨音を突き抜けて響き渡った。客席で俯いていた人々が、一人、また一人と顔を上げる。その歌声に、何かを感じ取ったように。


ヒビキは歌い続ける。不安を振り払うように、希望を繋ぐように。自分のためだけじゃない、ここにいる誰かの心に、少しでも温かいものが届けばいい、と。歌声は次第に力を増していく。それは、簡単な慰めではなく、困難な状況でも隣にいる誰かと手を取り合い、共に希望を見つけ出そうとする、ヒビキ自身の魂からの叫びのようだった。安易な「大丈夫」は言えないかもしれない、けれど、共にこの夜を乗り越えたい、この声が届くなら、きっと暗闇にも光は灯るはずだ――そんな、不器用だけれど真摯な祈りが、力強いメロディとなって会場に響き渡った。


その時、奇跡が起こった。


客席のあちこちで、ぽつり、ぽつりと、リストバンドが温かい光を灯し始めたのだ。それは、決して強くはない、けれど優しく、純粋な輝き。ヒビキの歌声に呼応するように、その光は次々と増えていく。不安の色が消え、共感と感動の光が広がっていく。


光は集まり、束になり、ステージへと流れ込むようだった。嵐でちらついていたステージの照明が、その集合的な女子力エネルギーを受けて、安定した力強い輝きを取り戻す。ノイズが混じっていた音響システムも、クリアでパワフルなサウンドを奏で始めた。会場全体が、ヒビキの歌声と、観客たちの心の光によって、一つの温かい空間へと変容していく。


ヒビキは、目を開けた。目の前に広がるのは、無数の優しい光の海。嵐の中だというのに、そこだけは温かく、輝いていた。涙が溢れて止まらない。けれど、歌声は止まらなかった。むしろ、さらに力強く、感情豊かに、会場全体を包み込むように響き渡った。


歌い終えた瞬間、嵐の音を打ち消すほどの、熱い拍手が会場から巻き起こった。ずぶ濡れの観客たちは、皆、涙と雨でぐしゃぐしゃになりながらも、輝くような笑顔でステージ上のヒビキを見つめていた。


フェスティバル自体は、記録的な嵐によって多くのプログラムが変更・中止となり、決して成功とは言えなかったかもしれない。しかし、あの嵐の中で響き渡ったヒビキの歌声と、会場を包んだ光の奇跡は、「嵐の中の女神の歌」として、集まった人々の心に深く刻まれ、長く語り継がれることになった。


ステージを降りたヒビキは、まだ震えが止まらなかった。けれど、その心は、これまでにないほどの達成感と、音楽への確信に満ちていた。自分の歌が、人の心を繋ぎ、エネルギーを生み出す力になる。そのことを、身をもって知ったのだ。


雨はまだ降り続いていたが、ヒビキの心は晴れやかに澄み渡っていた。確かな一歩を、今、踏み出したのだから。

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