プロローグ
何故タバコを始めたのか、と言われたら、その直接の理由は思い出せない。ただ、始めた当時はひどく傷心気味だったせいだから、と言うことはできるが、それが喫煙の直接の理由になるとは、自分の中では思っていない。周りにタバコを吸っている人間なんて多分居なかったし、そういうのを勧めてくる人間とつるんでいたわけでもない。自発的に、心の傷を癒そうと思って俺はタバコを始めたのだけは、はっきり覚えている。
「今日はもう帰り?」
教室を出て、廊下を歩きながら友人が言った。
「うん」
「じゃあ、一緒に帰ろうぜ」
「あー、悪い。ちょっと購買に用事が。教科書とか色々と見たくて」
「そう? いこうか?」
「いいよ、待たせちゃうかもだし」
軽く会話を済ませるうちに、もう校舎を出ようとするところまで来た。
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
正門へと向かう友人を見届けて、イヤホンで耳を塞ぐ。
(タバコ吸いたい、なんて言えないよな……)
時代は分煙減煙禁煙嫌煙。喫煙者にとって地獄の四暗刻。今時、安易にタバコを吸っているなど公言はできない。たとえ気の知れた友人たちであっても、だ。
先ほどまでいた第一校舎を始め、第二校舎、研究棟、図書館は、それぞれが比較的密接していて正門からもそれなりに近いので移動は楽なのだが、第三校舎は少々遠い。授業も滅多に行われておらず、第三校舎の方へ向かうにつれ、人の数も減ってくる。
(よし……)
中を覗くと、案の定、そこには二、三人しか居なかった。
「はぁ……」
空いているベンチに腰を下ろし、バッグのポケットからタバコとライターを取り出す。
「ふー……」
ゆっくりと肺に入れ、煙を吐き出す。タバコの香ばしさとともに抜ける、ほのかなラム酒の香り。あれこれと試してみたが、ハイライトが一番好きな味だ。さすが、世界で一番売れたこともある銘柄だと思う。
「はぁ……」
第三校舎の喫煙所は、そのアクセスの悪さから来る人間の数は少ない。構内は他にも喫煙所があるが、ここ以外は全て、動線の都合上便利な位置に設置されているので、大半はそちらに流れる。そのため、大学構内の喫煙所では珍しく、静かに一服を楽しめることができる。おまけに人目につくこともほとんどないので、俺のように人目を忍んでタバコを嗜む人間には実に都合のいい立地である。
「ふー……」
一回、もう一回と、紫煙を吐くのを繰り返すうち、火がフィルター付近まで減っていた。
「……」
吸い殻を灰皿に捨て、二本目を取り出す。ジッポーの蓋を開け、火が消えないよう手で覆いながら、先端に火を灯す。タバコから煙がしっかりと昇るのを確認して、一口目を口から吐き出し、二口目から肺に入れる。一回喫煙所に行ったら、二本連続で吸う。これもすっかり習慣となってしまった。
「はぁ……」
何だか妙に疲れた。春休みが明けて三度目の春楽器を迎え、友人と積もる話で盛り上がりはしたが、とはいえ、一緒に居続けるのはどうも疲れてしまう。
昔から、俺は他人との付き合いは得意ではなかった。集団と居るときは目立たないようにすることに徹したし、誰と話す時もできる限り当たり障りのないような振る舞いを心がけていた。何か下手な話をして、それがきっかけで、変な噂が流れたり、変に評価されるのが怖かったから。
ただ、友人がいないわけではない。ふとした縁からできた友人は何人もいるし、大学に入る前からの付き合いになるやつも居る。問題は、俺はそんな彼ら相手にさえ、心を開くことができなかった。たった一人、彼女を除いて。
「……あの」
物思いに耽っているところ、横から声がかかった。女だ。彼女のことは何度も見たことがある。彼女もまた、この喫煙所の常連の一人だ。
「すみません、ライター貸してもらえませんか?」
初めて声を聞いた。涼やかで落ち着きのある声だが、どこか冷たさを孕んでいるような感じだった。
「……はい、どうぞ」
声の印象に頭がいっぱいになりかけたが、本題はそこではない。隣に置いてあったライターを彼女に手渡す。
「どうも」
一瞬、珍しそうなものでも見たような顔をしたが、彼女は慣れた手つきで火をつけた。
「ありがとうございます」
用を済ませると、軽く頭を下げながら俺にライターを返した。
「ふう……」
隣から漂ってくる、甘いバニラの香り。海外の甘いタバコとは違う、嫌にならない甘さ。先ほどチラリとパッケージが見えたが、やはりキャスターか。
「……」
一つ隣のベンチに座る彼女を横目で見る。シワのない黒のワイシャツ、黒のパンツに黒のスカート、そして、ワンポイントのつもりか、縁がシルバーの丸い眼鏡。レンズの向こうにある、二重でやや切長の目はいつも物憂げだが、その奥に潜む瞳は鋭い眼光を放っている。整った顔立ち、とは思うが、一目見て美人、とは言えない。上の下、あるいは中の上、くらいで、まあ、普通と言えなくはないような顔立ちだ。もっとも、人のことはまるで言えない立場なのだが。
彼女はこの喫煙所の常連の一人だ。彼女はいつもここで本を読んでいる。何時から何時までかは知らないが、少なくとも、天気のいい、日のある間はずっと本を読んでいる気がする。傍に缶コーヒーをおきながら、黒い布製のブックカバーのかかった文庫本をぱらぱらとめくっては、休憩ついでにタバコを咥える。その姿は、一見優雅に見えるが、俺には、どこか厭世的なものに見えた。
彼女の名は灰原未央。俺と同じ学部、同じ学科、そして、同じゼミに所属する女学生だということを知るのは、また後の話になる。